礼拝メッセージ要約
2025年8月17日 「弱さをになうことについて」
ローマ書15章
1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
15章の最初の前半は14章の続きです。いわゆる「強い人(選択肢の多い人」と「弱い人(選択肢の少ない人)」の関係で、お互いに裁きあわないことと、「強い人」は「弱い人」がつまずかないように配慮することが求められました。このふたつは、避けるべきこと(消極面)についてですが、最後にパウロは行うべきこと(積極面)について語ります。それは、「強い人」は「弱い人」の弱さをになうということです。ちなみに、この「になう」とは「持ち上げて運ぶ」というような意味です。他の箇所に「重荷をになう」という言葉もありますが、同じようなイメージと考えてよいでしょう。
これは、一般的な道徳として見ればわかりやすい話です。いわゆる公共福祉の原点とも言えるでしょう。例えば、税の大切な機能の一つに「所得の再分配」があります。富裕層は貧困層を助けるべきで、自発的な寄付活動以外にも公的な仕組みとして再分配をするための仕組みがあります。富裕層はその富すべてを特権として自分だけのために用いるべきではなく、貧困層を助ける責任もあるという考えです。キーワードは公共の福祉で、その「公共」の概念は、キリストのからだとも類似しています。もちろん、以上のことは「理想」であって、現実はそう簡単ではありません。貧富の格差は増大しており、日本でもジニ係数(格差の指標)は先進国の中では悪い方に位置しています。もちろん、経済的なことだけではなく、さまざまな分野で、「助け合いの精神」、「お互い様」といった伝統的な価値観が評価されるべきなのは言うまでもありません。
パウロの話も、そのような一般道徳に通じてはいますが、一般論ではなく具体的な内容が重要です。「強弱」を能力や所有物の多小に限定すれば、前述のような、再分配の事柄になるでしょう。しかし、ここでの話は、選択肢が多い人(強い人)とそうではない人との問題です。ですから、自分の選択肢を再分配するというよりも、選択肢の少ない方に自分を寄せていることになります。14章ですでに語られていた通りです。それは、自分自身ではなく隣人を「喜ばせる」ためです。この「喜ばせる」というのは、「満足させる」というような意味です。選択肢が多く自由度が高いというのは確かに喜ばしいことです。そして、その自由を行使できるなら満足度もあがるでしょう。反対に、自由が制約されてしまうと不満を感じるのも自然です。ですから、自らの自由を制限するのは、自分を満足させることにはなりません。しかし、それよりも大切なのは他を満足させることだというのがここでの論点です。つまり「仕える」ことの大切さです。
ただし、ここで注意が必要です。このような「強い人」の自己制限によって「弱い人」が満足するという時、その「満足」とはどのようなものなのでしょうか。というのは、それが「弱い人」の自己満足に陥る危険があるからです。つまり、彼らが「やはり、律法を遵守している自分たちが正しかったんだ。彼らも、やっとそれに気づいたので、私たちと同じように行動するようになったのだ」と勘違いをしてしまうことです。いわば「弱い人」が「強い人」に勝利したという錯覚です。本当に勝利したのは、彼らではなく、神のアガぺなのですが。さらに、このような錯覚が起こり、それに気づいた「強い人」が、自分の自由を制限したことが裏目にでたと判断する可能性もあります。すなわち、律法主義が勝利してしまったかのように見える事態です。その時、「強い人」はどのような行動をとる可能性があるでしょうか。
これはよく起こることです。パウロは、自分を喜ばせないことの手本としてキリストご自身を示しています。ピリピ書には有名な「ご自身を無にし、しもべの姿を取られたキリスト」という表現がある通りです。キリストがしもべとして仕えることに徹されたのならば、そのキリストのしもべである私たちも同様の道を進むのは当然でしょう。ただし、この道は「いばらの道」であることも忘れることはできません。それは、キリストに仕えられたはずの人々が、最後には彼を十字架に送ってしまったことからも明らかです。「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」とパウロも書いているとおりです。人々はキリストを弱者とみなし、キリストご自身もそれをあえて否定されなかったということです。そして、ここでの「弱者」とは、単なる力のことではなく、律法違反者を指しているというところがポイントです。
キリストは律法に対して自由であるという意味で「強者」なのですが、あえてご自身を律法のもとに置かれたがゆえに、律法主義者によって裁かれ、十字架につけられたのです。注意すべきは、キリストがご自身を律法のものに置かれたという時の律法と、律法主義者がいう律法は異なるという点です。前者は、文字通り神の御心であり、後者は宗教的なシステムなのです。真の強者である前者が自らを弱者の立場に置いた時、本当は弱者である後者によって裁かれという構図です。すなわち、十字架とは、律法主義が神の御子(すなわち神の御心そのもの)を弱者として裁いた場所ということです。これは一見、律法主義の勝利に見えるのですが、実はそうではなく、キリストご自身があえてその道(ご自身を無にする道)を選ばれた結果だというのが、まさに福音そのものなのです。
キリスト者は「強い人」も「弱い人」もキリストにつながっています。ですから、その中の「弱い人」は、キリストを十字架につけた人と同じになることはあり得ません。ですから、「強い人」を排除することはできません。ただし、心の中で彼らを裁くことも許されません。それは、彼らが自由にふるまうことに対してだけではなく、彼らが自らを制限していることを便宜主義、偽善と呼ぶことも含みます。そのように思うとすれば、それは「弱い人」が、あくまでも自分が正しいという前提でものを見ているからでしょう。彼らが正しいのは、彼らが律法を遵守しているからではなく、ただキリストの恵みによるのです。
また、自分を制限する「強い人」の方も、「自分は彼ら(弱い人)に合わせてあげているんだ」という思い(いわゆる上から目線)を持ってはなりません。それも、自分で自分を正しいとしていることです。彼らに選択肢が多いのも、またそれを自分で限定できるのも、すべて神の恵みによるのですから。このように、このテーマはシンプルでありながら、具体的なことになると、非常に複雑で微妙な内容を含んでいます。そもそも、人は(キリスト者は)単純に「強い人」と「弱い人」に分かれるわけではありません。同じ人が、ある分野では強く、他の分野では弱いというのがほとんどでしょう。例えば、食べ物に関しては自由でも、飲酒については厳しい人もいます。娯楽の選択についても、様々な意見があるでしょう。それらすべてを理屈で解決するのは不可能と言えます。ですから、ひたすら聖霊の導きにより「アガぺ」の働きが現れるよう求めていくことが必要なのです。そして、そこに「忍耐」と「励まし」が必要なのは言うまでもありません。