礼拝メッセージ要約

2025810日 「本気について」

 

ローマ書14

18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。 

20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。 

21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。 

22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。 

23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

 

お互いに裁きあうのではなく、霊的成長に役立つことを追い求めるべきだとパウロは語ります。これは、基本的にどんな場合でも言えることですが、ここでのテーマである「自由の行使」においても重要な原則です。いわゆる「強い人」はどんなものも食べることができますが、「弱い人」はそうではありません。両者が棲み分けではなく交わりを保って共存するためには、「強い人」にはある種の配慮が求められます。21節にあるとおり、自らの選択を制限する(「弱い人」が避けるものを自分も避ける)という配慮です。これは、弱い(選択肢が狭い)ほうが正しいからではありません。「弱い人」がつまずかないためです。ここでの「つまずき」とは、「弱い人」が「強い人」を裁くことではありません。そもそも裁くことがだめなのですから。あるいは、「弱い人」が、自分をむしろ「強い人」(宗教的規律に従っている人)とみなし、「強い人」を裁かずに「心を痛めること」もあり得ます。それも痛ましい事態ですが、それもここでの論点ではありません。

 

そうではなく、ここでの「つまずき」とは、23節にあるように、「弱い人」が、弱い状態であるにもかかわらず、「強い人」を真似て、内心では良くないと思いながら食べてしまうことです。それは「罪に定められること」だと、パウロは強い表現を使っています。もちろん、ここでの「罪に定められる」とは、救いそのものに関わることではありません。彼もキリストのしもべ(キリストに属する者)なのですから。とは言え、その特定の行為については「誤り」だと裁定されるということです。繰り返しになりますが、罪(ハマルティア)とは「的外れ」という意味です。悪いと思いながら行うのは的が外れているのです。もちろん、パウロの主要な論点は、「強い人」が「弱い人」に対して、そのような「的外れ」なことを(直接、間接に関わらず)促すなということです。もっと強く言えば、「そそのかすな」ということでしょう。(もちろん、本人はそそのかしているという自覚はないでしょうが)。このように、強調点は「強い人」に対する忠告ですが、やはり、「弱い人」に起こる事態についても確認しておく必要があります。

 

「疑いながら行う」ことが問題となっているのですが、このこと自体はユダヤ教の伝統の中でも取り上げられています。聖書にはしばしば「ふた心(心が分かれている)」が糾弾され、全き心(ひとつにまとまった心、直ぐな心、いわゆる一心)が称えられています。それ自体は、ユダヤ教に限らず一般的な道徳でしょう。「やるなら本気でやれ」というのは良く言われることです。この「本気の勧め」は、真面目な人たちに響くでしょう。他方、それほど真面目でない人にとっては、「むきにならず、ほどほどが良い」という考えの方が魅力的で実用的でしょう。もちろん、何事かを成し遂げるには「本気」で取り組むことが必要です。しかし、何でも本気ならば良いという程、物事は単純ではありません。人は、間違ったことでも、本気になることがあるからです。それは本人にとって悲劇ですし、周囲の人にとっても迷惑なことです。また、戦争のように、場合によっては破滅的でさえあるでしょう。俗にいう「信じるものは救われる(信念さえあればすべてうまくいく)」などという教訓が常時通用するような世界ではありません。

 

ユダヤ教で「本気(一心)」が説かれるのは、言うまでもなく「律法の実践」についての本気です。嫌々形だけ行っていても意味はない、心から行うことがすなわち「主を愛す」ことだというのが根本です。この言葉も、それ自体は正しいでしょう。見せかけより本気の方が良いのは当たり前の話でしょう。その点で、キリストと出会う前のパウロも、律法実践については非の打ちどころがないものだったようです。それこそ本気の度合いが人一倍強かったと言えるでしょう。彼の律法実践はまさに「(彼の)信仰から出ていた」のです。そして、ローマ書のテーマは、「その意味」での信仰による行為そのものが的外れだったというものです。彼は、本気で「正しいこと」をしていたはずなのに、間違っていたのです。ここの肝は、間違っていたことを本気で信じ実践したわけではなく、それ自体は正しいこと(律法)を信じ実践していたという点です。問題は律法主義と「アガぺ」の対立です。

 

例えば、他人に何かを勧める場合でも、本当にそれが良いと思うからではなく、それによって自分が儲かるからという理由で行うなら、経済行為としては成立しても、愛(アガぺ)の実践とは言えないでしょう。パウロの律法実践は、もちろん経済的利得を意図していたわけではなく、心からの行為であり、信仰だったでしょう。もっとも、彼の神に対する態度は明らかでも、人に対するものがどうであったかははっきりしません。キリスト者に対しては容赦ありませんでしたが、もしかしたら、その他に同胞に対しては愛の実践をしていたのかもしれません。しかし論点はそこにはありません。彼の生活態度自体の問題ではないのです。論点は律法か聖霊かということです。

 

「弱い人」が疑いながら食べることが誤りなのは、律法によって汚れているとされているものを食べることではありません。そうではなく、「疑いながら食べる」ことです。ここでの疑いとは、律法に照らしての知的な判断が揺らいでいることではなく、聖霊による導きを受けていないことです。食べる人も、聖霊によらず、単に欲によって食べているならば的はずれでしょう。「弱い人」も、その時点での聖霊の導きが食べないことならば、食べなければよいのです。それなのに、何らかの理由によって食べるならば、聖霊の導きに反しているという意味で罪です。何らかの理由とは、例えば、自分を強く見せたいとか、だれかに気に入られたいとか様々でしょう。それが何であれ、律法から卒業した私たちは聖霊に導かれるのです。誤解してならないのは、聖霊に導かれる人は「強い人」に限らないということです。「弱い人」は、聖霊によらず律法の奴隷であるという意味ではありません。「弱い人」も、「弱い人」なりに聖霊の導きのもとにあるのです。ですから、彼らが自ら受けている導きにあえて反するような行動をとるのが間違いだということです。そして、パウロは、そのような行動を「弱い人」にとらせるようなことをしてはならないと、「強い人」に警告をしているのです。それが、聖霊によるアガぺの働きです。

 

ここに至って、「信仰から出ていないことは、みな罪である」という一文の意味も変容していることがわかります。それは、本気であれ(具体的には律法の実践において)というという、人間の信仰(信念)の問題から、ローマ書のテーマである「キリスト信仰」へと焦点が変わっているということです。そして、このことは「信仰」という言葉自体の意味も変容しているということです。変容前の信仰とは、一つには律法(外から与えられる規範)を受けいれることであり、もう一つは、その際の本気度(真実さ)でした。しかし今や、それは内側から働く聖霊の働きに委ねることであり、その基盤は、自分自身ではなく徹底的にキリストの真実にあるのです。まとめると、キリスト教という外側からの規範に本気で従うことではなく、キリストご自身に身を委ね、キリストご自身に、自分を通して働いていただくということです。