礼拝メッセージ要約
2025年8月3日 「きよさとけがれについて」
ローマ書14章
13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
「お互いに裁きあうことがないように」という勧めから一歩進んで、「つまずかせない決心をするように」という勧めが語られています。ちなみに、前者の「裁き」と後者の「決心」は同じ言葉です。裁くなら他人ではなく自分をというのは原則です。ここでは、その「自分を裁く(自分を吟味する)」内容が問題となっています。それは、他人をつまずかせるかどうかということです。
まず、ここでの「つまずき」の中身を確認しましょう。直接のテーマは「食べ物」です。すなわち、汚れていて食べてはならないとされるもの(食物禁忌)に対しての態度です。今まで学んだように、私たちは律法から卒業しているので、基本的に宗教的に食べてはならないものはありません。神が創造されたものは良いものですから、それ自体で汚れているものはないからです。しかし、このことは現代の世俗社会では受け入れられても、ユダヤ教をはじめ宗教世界では当然ではないでしょう。そもそも、なぜ律法にはきよいものと汚れているものとの区別があったのでしょうか。それを単に古代の迷信で片づけてしまっては、私たちが何から「卒業した」のかもわからなくなってしまいます。
モーセ律法で、「区別」が説かれている理由のひとつは、「聖別」という観念です。つまり、「神の選び」です。この「選び」については、ローマ書でも扱われています。そもそも被造物には、それぞれ違いがあり、役割があります。それは、人間の都合によって決まっているのではなく、神から与えられているという考えです。神の選びですから、人がそれに対してあれこれ言っても無駄だというのが、とりあえずの答えでしょう。しかし、無駄(運命)だと言ってあきらめるのではなく、なお神に問いかけ続けるという側面があるのが、聖書の世界です。ユダヤ教は、絶対的な「君主」であるような神を説きながら、同時に神と人との語り合い(時には大激論)の宝庫でもあるのです。
その中で、「汚れ」とされるものについて、その中の一部には、ある種の共通点があるというのがユダヤの見方です。すなわち、汚れは「死」と関連しているというものです。病気や出血にかかわる汚れなどは分かりやすい例で、日本でも馴染みのある観念でしょう。とは言え、すべてのケースがあてはまるわけではありません。最後には謎が残ります。それでも、きよさがいのちに、汚れが死に関連づけられているのは重要でしょう。被造物はそもそも良いものとして造られましたが、現実の世界には死が猛威をふるっているのですから、汚れを避けようとするのは当然とも言えるでしょう。
それにもかかわらず、パウロは(そしてイエス様も)、すべてのもの(食物)はきよいと言われました。ただし、「それ自体で」という説明がついています。これは高度で重要な判断です。例えば豚は汚れた動物に分類され、食べることは許されません。豚が汚れていると宣言したのは一見「神」です。律法が神の言葉であるならそうなるでしょう。しかし、パウロ(イエス様も)が言うのは、豚自体が汚れているわけではなくということです。それはあくまでもモーセ律法の規定なのです。これが高度で重要なのは、ここに「ことば(言語)」の問題があるからです。言語とは何かを理解しないと、「神のことば」の受け取り方がわからなくなってしまうのです。一般に言語には「記述言語(外部にある物事を記述・説明するもの)」と「表現言語(内側から表出されてくるもの)に分けられます(他にもあります)。問題は、律法(あるいは聖書の記述)がどちらの言語なのかということです。律法が神のことばだと言うのは、本来は神の意志や思いの表現です。それは、人が神を観察して記述したものではありません。この違いは微妙ですが決定的です。例えば、「主の御名を呼ぶ者はだれでも救われる」という文を例にとります。これが神のことばなのは、そこに神の思いが表現されているからでしょう。しかし、これを「記述言語」として読むと、救われるための方法を説明した文となるでしょう。つまり、救いについても公式のようなものです。そうなると、例えば公式を裏返して、「主の御名を呼ばない者は救われない」という文もできあがります。ただし、公式にするには、御名を呼ぶということが具体的に何を意味するのかを決定しなければなりません。何をもって呼んだと言えるのか、1回だけ呼べばいいのか、救われるとはどういう状態なのか、一度救われたらもう安泰なのか等、詰めなければならない項目がたくさん出てくるでしょう。このようなことを「律法主義」と呼ぶのです。すなわち、神のことばを「表現言語」ではなく「記述言語」として読んでしまう誤りなのです。
けがれについても、もしそれが記述言語ならば、豚は汚れていると書かれている以上、汚れているのです。しかし、そのような律法レベルの言葉は神の自己表現そのものではありません。神は、きよさやけがれについて説明しているのではなく、そのことを通して「思い」を表現しておられるのです。ですから、豚そのものがけがれているのではなく、食物の制限を通して神が語ろうとしている思いそのものを知らなければなりません。そして、その「思い」は公式ではありませんから、ひとりひとりが神との交わりを通して受けとるものです。その受け取りの中で、例えば「豚を避けよう(けがれているとみなそう)」とするならば、それはそれで成立します。その思いが、神との交流において意味があれば良いのです。けすから「結局、豚はけがれているのかいないのか」という問いには意味がありません。豚の本姓についての記述をするのが目的ではないからです。目的は、このテーマを通して神とどのような関係にあるのかです。
ここで「つまずかせる」というのは、ある食物が(その人にとっては)けがれではない人(強い人)が、その食物が(その人にとって)けがれである人(弱い人)の前で、あえてその食物を食べて、弱い人の心を痛める行為です。この問題については、次のセクションでさらに詳しく論じられますので、次回に譲ります。今回のポイントは、強い人がその自由を行使することよりも愛(アガぺ)の実践の方がはるかに重要だということです。第一コリント13章にあるように、すべての賜物よりもアガぺが優先されるのです。すでに12章で語られたとおり、各人にはそれぞれ賜物が与えられており、それを他者の徳を高めるために使うべきです。私たちはキリストのからだの各部分だからです。この事実をパウロはここで「神の国」とも呼んでいます。それが地理的(地上的)な意味でないことは明らかでしょう。地上においては飲み食いは重要ですが、私たちにはそれにもまして重要なことがあります。「義と平和と聖霊による喜び」と訳されていますが、実質的に、聖霊は義と平和も修飾していると考えられますから、要は聖霊の働きこそが神の国の実質であり、それによってのみ律法から卒業できるのです。