礼拝メッセージ要約
2025年7月27日 「主に属する者」
ローマ書14章
6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
11 次のように書かれているからです。
「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
偶像に捧げられた可能性のある肉を食べて良いのか、特定の暦を守るべきなのかという問題を通してパウロは自由を語っています。ここでの自由とは、選択肢の幅のことで、それが広い人は「強い人」ではありますが、それが善い人を意味しているわけではないことを学びました。自由には責任(応答可能性)が伴いますから、善悪は結局選択の結果次第だということになります。パウロはこのことを12節で明確に述べています。私たちは他人を裁くのではなく、自分自身を主の裁きに委ねるべきなのです。
このことは、キリスト者の間では当然の話のはずですが、実情はどうかと言うと、かなり難しいものがあるでしょう。と言うのは、実際問題、他人がしていることが全て正しいとは限らず、お互いに戒めあい、徳を高めあうことも必要になる場合があるからです。愛があれば戒めで、なければ裁きだということが言われますが、ここで問題となっているのは、そのような態度ではなく、何に関して裁いたり注意したりするのかということです。(例えば肉や暦について)。この点については古来議論されてきました。私たちは律法から卒業しましたが、それは何でも無条件に受け入れるということではありません。卒業したというのはマスターしたということなのですから。この問題についての一般的なアプロ―チは、律法を祭儀と倫理に分ける方法です。祭儀とはユダヤ教固有の宗教儀式やしきたりで、神殿を中心とした祭儀にとどまらず、日常生活を規定しているもの全般です。私たち(特に異邦人)はそれに縛られません。それに対して倫理とは、例えば「殺すな」「盗むな」というようなことで、これらはユダヤ教固有のものではない、いわば普遍的な道徳に関することです。パウロはこれらを「肉の働き」に従わない生き方という観点から語っています。このアプローチは概ね有効だと言えるでしょう。ただし、普遍的な道徳といっても、細かいところでは文化や時代によって違いもあるでしょう。祭儀と倫理の区別が難しいケースもあります。それでも、私たちは聖霊の導きによって判断をし、祭儀であれば他の道を歩んでいる人を裁かず、倫理であれば愛をもって戒めあうという方向をとらなければなりません。
以上のような具体的な問題以前に、私たちは根本的なことを自覚する必要があります。それが、7節8節の内容です。私たちは生きるのも死ぬのも主のためであり、自分自身のためではありません。何々のためにと訳されている言葉は、何々の方向へとか、何々に属するものとしてというような内容です。8節の最後に、私たちは主のものであると明記されている通りです。問題は「主に属している」とはどのような現実なのかという点です。これはまさにローマ書のテーマそのものです。ですから、14章で扱われているような「選択」についても、その観点から捉える必要があります。言い換えると、その観点がないならば、すべては律法の問題に逆行してしまうということです。
律法の観点はこうです。神と人とは、主人と奴隷のような関係にあり、主人のいいつけを守り実行するのが善い奴隷である。いいつけとは律法である。従って人は律法の支配化にある。すなわち神に属しているとは、律法に従属していることである。この時、神は人の外部から命令をくだす存在としてイメージされています。もちろんこれがユダヤ教のすべてではありません。神はイスラエルを愛し、民も神を愛すべき存在と言われているのですから、奴隷といっても愛によって結ばれている存在でもあります。とは言え、そのユダヤ教自身が証しているように、律法は石に書かれている(すなわち外にある)という事実です。そして、来るべき世界では、律法は心に記される(すなわち中にある)のです。これが新約です。この中に記されというのは、私たちが律法を暗記するというのではなく、聖霊が内在するということで、すべて預言者たちによって預言されていたのです。そして、今やキリストとともにそれが実現したというのが福音に他なりません。特筆すべきは、その暁には、もはや「主を知れ」とお互いに言う必要がなくなるという点です。それは、聖霊が内在しているということがすなわち主を知っているということだからです。これは、いわゆる情報としての知識を持っているということではありません。ローマ書でいう「相互内在」の関係にあるという意味です。
この関係は、時間空間に制約されていません。従って、生きている人だけではなく死んだ人にも適用されるのです。9節にある通りです。8節の、「生きるのも死ぬのも主のため」という文を、主のためには決死の覚悟で生きるという心構えのことに解することがありますが、ここでの論点はむしろ、私たちとキリストが不可分であり、それは生死を超えているということです。そして、そこまで固く結びついているということが、すなわち主に属しているという意味なのです。この固い結びつきがなぜ重要なのかが大事なポイントです。それは、この結びつきと「信仰の強さ・弱さ」は別物だということです。強さ・弱さは、この世との関係における選択肢の幅(いわゆる横の関係)の話であり、キリストとの結びつきはいわゆる縦の関係です。両者は無関係ではありませんが、混同してはなりません。横の話を盾に持ち込むのが、ここでいう「裁くこと」につながってしまいます。縦の関係は、完全に恵みによってもたらされているのですから、そこに人間の問題を持ち込むことは許されません。
最後に確認するのは9節です。私たちは主に属する者として(すなわち主との相互内在の関係にある者として)生き、また死ぬのですが、それは私たちの心構えや気持ちによって左右されるような、いわば主観的な出来事ではなく、私たちの実情とは別の、決定的な事実によるものだという点です。それは、キリストの出来事に依存していることで、私たちにはただ与えられる恵みなのです。その出来事とはもちろん十字架と復活なのですが、パウロはここで簡潔にこう言っています。「主となるために、死んで生きられたのです」。原文は、「死んだ(アオリスト)」そして「生きた(アオリスト)」です。現在形(進行中の出来事)ではなく決定的な出来事を指すますから、歴史的には十字架と復活を指します。(「死んだ」が先で「生きた」が後であることからもわかります)。
因みに、「死者にとっても主である」という句から、死者の有様について様々な議論がなされますがいずれも推測の域をでません。ここで死者が触れられているのは、通常死後に行われるとされる主の裁きが述べられているからですが、8章冒頭にあるように、キリストにあるものは罪に定められることがないという、究極の救いを忘れてはなりません。そのうえで、私たちは他人を裁くのではなく、自分自身を主の裁きに委ねる(評価をしていただく)のです。パウロがこれを強調しているのは、当時のローマの教会にも問題があったからでしょう。私たちはこのことを他人事とせず、しっかりと受け止めるようにしましょう。