礼拝メッセージ要約
2025年7月20日 「暦について」
ローマ書14章
1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
パウロは「肉(偶像に捧げられた可能性のある肉)を食べるかどうか」という問題に関して、それは任意であると答えています。ここに、キリスト者の自由がテーマとなっているわけです。彼は続けて、「特定の日を守るかどうか」という問題にも触れています。自由という結論は同じなのですが、肉とは違う分野なので、少し中身を検討する必要があります。
まず一般論として、特定の日を特別視するのは、どの文化でも見られることでしょう。要するに「暦」にこめられた意味の問題です。日本で言えば、盆と正月、国民の祝日、個人の記念日を始めたくさんあります。それらを大切にする人もいれば、あまり関心を持たない人もいます。現代社会では、公的な日の扱いはゆるくなり、個人的な行事の方が大切にされる傾向があるようです。いずれにしても、それらを絶対視するのは少数派でしょう。パウロは、このような現代的な傾向を述べているだけなのでしょうか。
当然、そこには宗教的な問題がからんでいるでしょう(肉の場合と同様に)。ユダヤ人によって、律法で規定された暦は、単なる習慣ではなく信仰的な意味を持っています。その最たるものが「安息日」でしょう。その他にも、主の例祭と呼ばれる律法に規定された祭りやその他の祭りもあります。ユダヤ教は、場所だけではなく「時」の聖別する宗教だと言われる所以です。特に、安息日はモーセの十戒に含まれている最も基本的な「日」ですから、それをどう扱うのかは、いわば死活問題なのです。このあたりの消息は、福音書の中で、キリストと反対者たちの激論の中に見ることができます。これに関してキリストは過激な言葉を述べられています。「人が安息日のためにつくられたのではなく、安息日が人のためにつくられた」という、宗教家が激怒するような「人間中心主義」ともとれるような発言です。この部分はとても奥が深いので、今は触れません。
いずれにしても、安息日が特別な日であることは否定できません。パウロの時代のキリスト者でも、ユダヤ人の多くは当然のように安息日を守っていたでしょう(パウロもそうです)。当初キリスト者は、安息日が明けた土曜日の日没後に家に集まり、「主の晩餐」を持っていました。やがて復活を覚えて、週の初めの日(日曜日)の夜明け後に礼拝するという習慣も生まれたのです。言うまでもなく、安息日(第7日)自体は変わりませんでした。そのような中で、異邦人キリスト者が増加するにしたがい、彼らと安息日との関係が問題となりました。彼らはユダヤ人ではないので、安息日の礼拝(シナゴーグ)に参加できないという実際的な事柄もありましたが、そもそも、彼らはモーセ律法を守る必要があるのかどうかという、根本的な問題がありました。これについて、パウロと反対者の間では大きな対立があり、ある種の実用的な方策が図られたことが使徒の働きの中に記されています。要するにパウロの自由派と、反対者の律法厳守派との対立です。厳守派の主張は、要するに異邦人キリスト者はユダヤ人になるべきということですから、パウロは絶対に同意することはできませんでした。それは、福音の根本を否定することになるからです。ローマ書のテーマが「律法からの卒業」なのも当然でしょう。
パウロの結論は明確です。ユダヤ人はユダヤ人のままでキリスト者となれるし、異邦人は異邦人のままでキリスト者になれるのです。ポイントは、それはが文化的なすみ分けではなく、キリスト者の自由の問題だということです。もし「すみ分け」であったなら、ユダヤ人と異邦人のキリスト者は深い交流をすることはできないでしょう。いわゆる律法の壁が存在しているからです。律法から卒業した私たちは、そのような壁を超えることができるのです。パウロはユダヤ人でしたが、ギリシャ人と交流する時はギリシャ人のようになることができました。それはいわゆるオポチュニスト(機会主義者)が便宜的に立場を使いわけるようなことではなく、真に自由な者のあり方なのです。
この自由の根拠はキリストです。私たちはキリストのしもべであって、キリストによって立たされています。文化や人種あるいは宗教(律法)によってではありません。主がしもべを立たせているのですから、だれにもそれを裁くことなどできないのです。何をするにも主のためにしているのであればそれで良しとしなければなりません。もちろん、人は言うでしょう。「どうして、主のためにしているのかどうかが分かるのか。律法(安息日)を破る者が、主のために破っているなどと主張しても信じるわけにはいかない」と。つまり、「自由」がキリストに由来しているのか、単なる身勝手なのか、どう区別するのかという問題はどうしてもつきまといます。それだからこそ、人々は律法(固定的な判断基準)を求めるのでしょう。要するに、律法を卒業できるかどうかということです。この問題は前回も扱いました。聖霊の働きにどこまで委ねられるかにかかってくるのです。聖霊がなければ律法しか残らないのですから。
ひとつだけ身近な問題を確認します。以上の話は決して2000年前のユダヤ人・ギリシャ人の事柄に限ったことではありません。安息日に類する話はいくらでもあります。ご存じにように、日曜日は律法で言うとことの安息日ではありません。それは週の初めの日であり、キリストの復活を記念する日です。しかし、それを安息日のように扱うキリスト教の文化というものもあります。名前はともかく、特別な日であるという考えは珍しくないでしょう。パウロが言うように、特別を思う人も思わない人も、それぞれ自分の中で確信を持てばよいのです。ここで「確信を持ちなさい」とあるのは、確信している(させられている)状態でいなさいという文です。自分自身を確信させるとも、神によって確信させられるとも取れる文ですが、文脈から言って後者でしょう(主のしもべなのですから)。
大切なのは、この「確信」は自分の信念に固執するのとは異なるという点です。ここでの確信は聖霊によるものでなければなりません。それは自分の宗教的信念とは異なるのです。日曜日についても、それをどのように位置づけるかは、それぞれが主の導きにあれば良いのですが、それが結果的に「すみ分け」になるなら、それは自由ではありません。例えば、日曜日が特別とは思わない人も、特別だと思う人と自由に交流することができなければ、それは自由ではなく単なる信念あるいは気儘だということでしょう。逆もまたしかりです。一般に、「自由には責任が伴う」と言われますが、この「責任」とは「応答性」という意味です。それは、神への応答(すなわち聖霊の導き)であり、人への応答(交わり)なのです。