礼拝メッセージ要約

2025713日 「救いの根拠」

 

ローマ書10

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 

10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 

11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」 

12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。 

13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

 

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」、昨年召された兄弟のことを覚え、改めてこの聖句をかみしめます。この世界には様々な予期せぬ出来事がありますが、神のことばは変わることがないからです。

この聖句は、単に唱えればよいという魔法の言葉ではなく、そこには重要な内容が含まれており、それが現実となることが必要です。ですから、ひとつずつ読んでいきます。

 

まず、「だれでも」という部分です。もちろん、「主の名を呼ぶ者」すべてですから、単純に人類全員のこととは言えません。しかし、ここでは「救い」が及ぶ可能性がある範囲を語っているのですから、まずはその範囲を勝手に限定することは許されません。一般論にしてしまえば、まずは人間全般と言えるでしょう。しかしそのような「一般論」ではなく、具体的な現実世界となると、問題は複雑です。人類と一口で言っても、そこには少なくともあらゆる区別、さらには差別があり、壁と分断によって世界は悲鳴を上げています。パウロの目の前では、ユダヤ人と異邦人(その他の人)という分断があり、それを乗り越えることを可能にするのが「福音にある信仰義認」でした。これは、今日も同じです。最も厳しい分断の実例として「ユダヤ人と異邦人」を取り上げることによって、ここでの「だれでも」が正真正銘の「だれでも」であることを表しているのです。キリストが「罪人の友」と呼ばれ、宗教家たちから蔑まれていたことも忘れてはなりません。ですから、私たちは、この聖句を告白する際に、自分がどこまで「だれでも」を言えるのかが問われるのです。言い換えると、神の救いの範囲を、人が勝手に制限していないのかということです。

 

次に「主の御名」です。ここでの「主」とはキリストを指しています。「御名」とは、短く言えば固有名詞である「イエス」であり、そこにタイトルを付けると、フルでは「主イエスキリスト」となります。だれにとっても名前が重要なのは言うまでありませんが、呪文ではありませんから、その発音そのものが厳密である必要はありません。(イエスは日本語風の発音です)。その「名」が指し示している存在が重要なのです。とは言え、名前自体の意味も大切です。ここでは「イエス」です。これは、ユダヤ人の中では一般的な名前だったので、その出身地を付けて「ナザレのイエス」などと呼ばれていました。意味は「神は救い」です。ユダヤ人にとって、神の救いを待望しているのは当然で、それが名前になるのも不思議ではないでしょう。

 

では、パウロを始め新約の世界では、この名前はどんな意味になるでしょうか。「神は救い」というのは、困ったときには神様が助けてくださるという一般的なことをも意味しますが、ここで二つのことが問題となります。一つは、何との比較で「神」なのかです。旧約ではしばしば隣国から攻撃されたイスラエルの民が、神に救いを求めたことが記録されています。この時の比較対象は、敵国の武力で、武力で劣っていたイスラエルが神の力で勝ったというような記事です。あるいは、神ではなく医者に頼った者の悲劇なども描かれています。このような事例ばかりを挙げると、「何でも神頼み」の話に思えるかもしれませんが、もちろんそんなに単純なことではありません。詳細を検討する時間はありませんが、要するに、これらの出来事は、来るべきキリスト(メシヤ)を指し示す「例話」だということです。(私たちは、聖書からキリストを読むのではなく、キリストから聖書を読むのです)。

 

要するに、真の救いは神から来るということです。(その媒体や方法は様々でしょう)。それは旧約も新約も変わりません。しかし決定的な違いがあります。それが「律法」の問題です。旧約では、イスラエルの苦難は律法違反への罰と捉えられていました。ですから、救いを武力や医学などの人間の力量ではなく神に頼るというのは、実践的には律法に帰ることを意味していました。救いを求める彼らの叫びや祈りは真実であったでしょう。しかし、救われるべき彼らの「存在のあり方」が問題でした。すなわち、律法の追求によって「義人」と認められることが、自己評価の基準だったのです。そこからは、「だれでも救われる」道が開かれないのは当然でしょう。

 

ですから、パウロは、信仰による義を説き、律法からの卒業を告げるのです。律法自体は善いものですが、その善いものを通して罪はますます悪質なものとなり人を支配するという、律法の二義性がはっきりと示されたからです。したがって、救いとは罪に対する裁きからの赦免と罪の力から解放のことだけでなく、それを実質的に成立させるための「律法からの卒業(完成・解放)」を意味します。これが福音の革新であり、「すべての者」に道が開かれる根拠なのです。

 

もちろん、この「すべての者」は、「主の御名を呼ぶ者」すべてを指しています。最後に「主の御名を呼ぶ」とは何なのかを確認します。名を呼ぶのですから、単に唱えるのではなく相手があります。相手は言うまでもなくイエスです。「口でイエスは主と告白し」とあるように、単に「ナザレ出身のイエス」という一個人に呼びかけるのではなく「主イエスキリスト」に呼びかけるのです。呼びかける以上、相手が生きておられることが大前提ですから、歴史的には「神がイエスをよみがえらせてくださった」と心で信じるのも当然です。要するに、今も生きて働いておられるイエスに呼びかけるのです。復活の教義を理解し受け入れて、イエスは主という文言を告白する儀式を行うということではありません(そのようなことが付随して起こることはあるかもしれませんが)。要は、「主は生きておられる」という、旧約以来の常套句が、今や復活のキリストによって実現したということです。イエスの名を呼ぶのは、ある意味では子供でもできる単純なことです。しかし、それが律法(宗教や道徳)の一部ではなく、それとは別の道であることが明らかになると、とたんに立派な大人にとって困難なものになっていまう可能性があります。福音書はその事例の宝庫でしょう。ですから、私たちは改めて「おさなご」のようなものとして、主の御名を呼ぶとともに、御名を呼ぶ者すべてが救われることを感謝しましょう。