礼拝メッセージ要約
2025年7月6日 「強い人弱い人」
ローマ書14章
1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
13章で「上に立つ権威」との関係が語られた際、ローマ側に貢や税を納めるようにとの話がありました。納税の是非自体が問題になるのは、単に政治・経済のことだけではなく、背景に宗教的な理由からとのことでした。すなわち、社会活動の中に不可避的に組み込まれている「偶像礼拝」との関係です。14章はこれに関連した問題がテーマとなります。まずは「肉を食べるかどうか」ということが取り上げられています。
これは、肉食を拒否するいわゆる「菜食主義者」の話ではありません。当時のローマ社会において、市場で売られている肉は、まずはローマ宗教の神殿に捧げられてから市場に流通していたという事情がありました。(実際にすべての肉がそうであったかどうかはわかりませんが、少なくともそのような可能性があったということです)。ですから、そのような肉を食べることは偶像礼拝に参加することになる可能性が指摘されたのです。このようなことは、いわゆる「異教の社会」に住む者には日常的に起こることでしょう。例えば、日本において、おおくの建造物は起工に際して何等かの神道的儀式が行われるでしょう。あるいは、交通機関でも、車両のなかに交通安全のお札やお守りがあったりします。ですから、キリスト教に限らず、何等かの特定宗教を持っている人にとっては、自分から見て「異教的」と思われる習俗、習慣とどうかかわるべきかが問題となるのです。これは重要なテーマですので、14章全体の中でじっくり考えていきます。
まずは、パウロ時代の話です。異教との関わりが疑われる肉を食べてよいのかという質問へのパウロの答えです。結論は、良いとか悪いとかの問題ではないというものです。食べる人も食べない人もあるのです。これは、人それぞれということではありますが、問題はその根拠です。パウロはここで、「信仰の弱い人を裁くな」と、「信仰の強い人」に向けて語っています。後にわかるように、パウロ自身は「強い者」の立場から語っています。強い者は食べるし、弱い者は食べないが、相手を裁いてはいけないというのが趣旨です。ここで問題となるのが、「信仰が強い」とか「弱い」とかの表現は何を意味しているのかという点です。「信仰」という言葉の意味を確認しましょう。「信仰」には、「何かを信じること」という意味と、「真実」という意味の両方があります。「信仰義認」についての箇所で詳しく学びました。私たちを義としていくださるのは「キリスト信仰」です。基本はキリストご自身の「真実」で、そこに私たちは身を委ねます。まとめると、キリストの真実に信頼するということです。ただし、委ねると言っても、自力で委ねるのではなく、委ねること自体が恵みとして与えられている、いわゆる「絶対他力」ですから、そこに、強弱などはありません。まして、キリストの真実に強弱がないのは当たり前のことでしょう。しかし、様々な意味を持つ「信仰」という言葉の中には、強弱や成長の要素も持つ意味もあります。それは、その文脈で判断するしかありません。パウロがこの箇所で扱っているのは「自由」です。この問題を考えましょう。
なぜ自由がテーマになるのかは明らかでしょう。ローマ書で「救い」とは、罪の赦しと律法からの解放であり、その根拠はキリストとの相互内在と聖霊の働きです。これをまとめると、「キリスト者の自由」と言えるでしょう。自由には、立場上の自由と、行動における実際の自由、そして、その両者とかかわる心の自由の三つの要素があります。立場に関してはもう決着済みです。心は聖霊の領域です。あとは、実生活上の行動において、どこまで自由が許されるかが問題となります。パウロがここで「強い信仰」と呼んでいるのは、行動の自由度が大きい状態です。偶像に捧げられたかもしれない肉に関で言えば、それを食べることも食べないことも可能であるという、選択の幅が広い場合です。反対に、弱い信仰とは、食べない一択を意味します。これは重要なポイントです。と言うのは、一般的に「弱い信仰」とは、宗教に対して不徹底で、世俗的な生活をしている状態を指すからです。その場合、強い信仰とは宗教性が強い生き方のことになるでしょう。パウロの話は、それとは全く異なることを理解しなければなりません。律法からの自由とは、要するに宗教からの自由です。その自由をどう活用するのかが問題となるのです。
14章全体がこのテーマを扱っているのですが、今回は特に「偶像にささげられた肉」に焦点をしぼります。実はこの問題も複雑で、同じテーマを扱っているコリント書でも、相反する内容が書かれています。基本は、何でも食べることができるという「自由」なのですが、他方で、偶像に捧げられたのは悪霊に捧げられたのだから、そのようなものには関わらないということも言われているのです。問題は、偶像とは何かです。それは、中身のない空虚なものなのか、実体(悪い意味で)のあるものなのかが問われており、結論としては、それはケースバイケースだと言うほかはありません。霊的なことがらの判別は、この問題に限らず一律に決めることはできないのです。これは重要なテーマですが、ここで深入りすることはできません。今回は「自由」という観点にしぼります。
偶像の実態が何であれ、キリストご自身はそれらから完全に自由なお方です。放置することもできるし、追い出すことのできます。焦点は、悪霊そのものではなく、人との関わりです。悪霊とは人の自由を奪う存在ですから、要は人を自由にするかどうかが問題です。ところで、人の自由度(信仰の強弱)は何によって決まるのでしょうか。それは言うまでもなく聖霊の働きです。キリストの場合も、聖霊によって人を悪霊から解放しておられるのですが、それを超人的なパワーの発揮として見るのは不十分です。人の信仰を強くするのは聖霊であって、人の宗教的信念や行動ではありません。このことを、パウロはここでは「神のしもべ」という観点から説いています。自由度の強弱はあっても神のしもべという点では同じです。すなわち、聖霊の働く場としての存在なのですから、それをさばいたり、あなどったりするなど論外なのです。
強い人が弱い人をあなどったり(軽く見たり)、弱い人が強い人をさばいたりすることは、聖霊抜きで人を見る限り避けることはできないでしょう。しかしさばくべきは他人ではなく自分自身です。と言うより、神のさばきの中に自分を置くということです。その場合、問題となるのは、食べ物ではなく、あなどったりさばいたりすること自体となります。これは単に他人を大切にしましょうという道徳的なことだけではなく、聖霊対律法の問題です。強い人は律法の卒業を律法の破壊と取り違える危険があり、弱い人は律法を信仰と取り違える危険があるのです。偶像問題を通して、私たちはあくまでも聖霊の道を進まなければなりません。