礼拝メッセージ要約
2025年6月29日 「主イエスキリストを着る」
ローマ書13章
11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
改めて13章の結びの部分です。前回は、11節から13節の部分で、話の前提となっている「カイロス」について学びました。その文脈の中で、パウロは私たちが必然的に歩む方向性について述べています。この「カイロス(神の時機)」は、「信じたころ(過去)」と「眠りからさめる時刻(復活の未来)」との間の期間です。この眠りからさめる未来が「救い」とも表現されていることが注目されます。これまでも述べてきたように、「救い」という言葉にはいろいろな意味があります。当然ですが、「救い」とは何かからの救いなのですから、その「何か」によって救いの意味は変わります。私たちは信仰によってキリストと結ばれました。それは、罪とその裁きからの救いであり、さらには律法の呪いからの救いです。それらは「すでに」成就しています。それに対して「未だ」と言うべき将来の救いがあります。8章ですでに述べられた「からだの贖われること」すなわち復活であり、さらには被造物全体が贖われる壮大なビジョンです。パウロが11節で触れている「救い」が、この将来のビジョンであることは明らかでしょう。
この「すでに」と「未だ」にはさまれた現在において、私たちの生活がどのようなものであるかについては、ローマ書でこれまでも詳細に述べられてきました。ここで今一度語られているのは、おそらく「アガぺ」に関連して、私たちの歩みを再確認しているからでしょう。その歩みとは「昼間らしい生き方」であり、「光の武具」をつけた生活です。ここでの「光」とは、黙示思想の文脈での「昼」に対応したものです。すなわり、来るべき新しい時代を指しています。私たちは、この「未だ」である光の時代を「先取り」して生きるという意味です。言い換えると、私たちのからだは復活を待っていながら、すでに復活したもののごとく(すなわち霊において)生きるということです。ただし、あくまでも「復活したもののごとく」であって、まだ復活そのものではありません。また、周囲は新時代でもない以上、そこには摩擦や矛盾がおこります。その摩擦・矛盾は、自分と外部の世界の間において起こると同時に、自分の内部でも起こります。パウロは、前者については「光の武具」に触れ、後者については、日常生活での出来事について語っています。
「光の武具」は、いわゆる武具のことでないのは言うまでもありません。パウロは、ここの箇所でそれ以上武具についての説明はしていません。類似した箇所としては、エペソ書6章11節に「神のすべての武具を身につけよ」とあります。そこで明言されているように、それらの武具とは物理的なもの(血肉に対するもの)ではなく、あらゆる霊的な悪に対するものです。具体例として、「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音のはきもの」、「信仰の大盾」、「救いの兜」、「御霊が与える剣である神のことば」などが列挙されています。それぞれの詳細については、ここでは立ち入りません。いずれにしても、キリスト者にとって核心的な価値をもつものであり、すべて霊的なことがらです。これらが、この世にあって自分自身が成長し、歩んでいくために必要なことは言うまでもありません。ポイントは、これらすべては神から与えられる恵みであるということです。武具といっても、人間が作れるようなものは一つもありません。すべては神の恵みですから、そこに留まることこそが戦いの本質なのです。つまり、恵みに留まるかどうか自体が戦いなのです。恵みから落ちれば、律法主義に逆戻りしてしまいます。この問題については、これまで何度も語られてきました。
律法主義に戻らず、反律法、無律法に堕落することもありえるでしょう。13節には、そのような生活の一例が書かれています。いわゆる俗世間的な生活です。日本では、ある人たちが、「クリスチャンは品行方正なはず」と思っています。そのようなイメージに合致している節と言えます。ただ、そのような道徳的資質はあくまでも「結果」であって(すなわち「実」であって)、出発点ではありません。前回学んだように、これらは命令文ではなく、カイロスについての補足説明です。今の時(カイロス)とは、律法主義はもちろんのこと、無律法主義や反律法主義に陥ることなく、神の恵みの中に留まり歩む時だということです。
このように、パウロは黙示思想の枠組みを使いながらも、その実質においては、枠組みに捕らわれることなく、霊的な現実について述べていることがわかります。この現実について、パウロは最後に二つの命令文を書いています。一つ目は「主イエスキリストを着なさい(アオリスト・断言)」で、二つ目は「肉の欲のために心を用いてはいけない(現在進行)」です。後者は直訳すると「欲望に身(肉体)を捧げるな(捧げる生き方をするな)で、6章などで詳しく述べられていた内容です。心の使い方の問題であることに変わりはありませんが、自分の身体という具体的なもののあり方が問題とされていることは重要な点です。このことについては確認に留めて、最後の重要な結論について読みます。
「主イエスキリストを着る」というのは不思議な表現です。とは言え、キリストとの相互内在の一面であることは明らかでしょう。ポイントは、「単なる内在」と「着る」とではニュアンスが異なるという点です。そもそも、被造物が神の中に存在している以上、神から離れる(外に出る)ことは不可能です。その意味での「内在」は旧約の詩篇でも語られています。「キリストの内にある」という表現も、そのような「空間的」なイメージを持たれる可能性があります。(例えば箱の中に置いてある物のようなイメージ)。それに対して、「キリストを着る」という表現は、キリストと、その内にある人が密着している姿を表現しています。固定したキリスト空間の中で人が動き回っているのではなく、キリストと人は一体となって動いているのです。もちろん、キリストが私たちを覆っていてくださることもわかります。ここで、私たちを覆うのが、単にキリストではなく、主イエスキリストと呼ばれていることも重要です。つまり、霊なるキリストとしてだけではなく、歴史上のイエスという存在とも一体となっているのです。これは言うまでもなく、十字架のキリストを指しています。いわゆる、キリストの血潮に覆われているという、出エジプトとの関連がある表現ともつながります。ですから、私たちは十字架のキリストに包まれているということです。6章で、キリストの死につながるバプテスマという表現されていた内容です。
着るという言葉だけでは、相互内在の半面(私たちの内におられるキリスト)という要素は表立って語られていません。しかし、ここで大切なのは、「着る」ことが、単に外面を装うだけで終わらないという点です。中身と外見が異なるだけなら、いわゆる「馬子にも衣裳」となってしまいます。ですから、パウロは12章で変容を語っているのです。ポイントは、私たちが変えられるのは、私たちから離れたところにおられるキリストを仰ぎ見るからというよりも、私たちを覆っておられるキリストと一体となることによるということです。死につくバプテスマには、ローマの「死体に結び付けられて殺される」という残酷な刑罰が連想されます。キリストの死につながった私たちは「死んだ」のです。そして、キリストとつながった私たちは、キリストの復活にもあずかります。
そして、私たちはキリストにある「新しいいのち」を受け、変容されていきます。この現在進行中の事態が、すでに新しい世界が始まっていることの証しなのです。