礼拝メッセージ要約
2025年6月22日 「カイロスについて」
ローマ書13章
11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
13章の結びの部分です。冒頭に「このように行いなさい」とあるのは、単に「これを」という語です。単数なので、諸々の指示を実践しろというより、ひとつの中心的なことがらを指していると考えて良いでしょう。その「中心的なことがら」を捉えることが目的となります。
このセクションは二つの文からできています。11節から13節が一つ目で、14節が二つ目です。一つ目は長い分なので、日本語では(英語でも)いくつかの文に分けられています。この文の主部は、12節冒頭の「夜は(既に)ふけて、昼が(もう)近づきました」で、「ですから」以下は、その修飾(従属部)です。夜と昼の描写があり、それに続いて道徳的な命令があるというよりも、従属部は必然的に主部に含まれているのです。この主部が、11節冒頭にある「時」の内容であることは明らかでしょう。まずは、この「時」について考えます。
「時」と訳されている「カイロス」は、度々登場するキーワードのひとつです。「時機」というニュアンスがあり、新約聖書では、特に「神の特別な介入の時」(通常の人間的な時間との対比で)を意味します。ここでのカイロスは、「夜が更けて昼が近づく」時です。これは、いわゆる黙示思想にも登場するもので、既存の悪に支配されている世界が終わり、神の支配が実現する、いわゆる「終末的時代」を指しています。パウロは、少なくとも初期からローマ書の時代まで、黙示思想的な枠組みは維持していました。特に初期はそれが顕著で、キリストの再臨が切迫していた雰囲気が濃厚に伝わってきます。この黙示思想自体とローマ書との関係は、表立ってはいないものの重要なテーマです。というよりも、そもそも黙示思想を知らないと、ローマ書の革新的な側面もわかりません。そこで、やや遠回りにはなりますが、黙示思想について簡単に触れておきます。
ざっくり言うと、「今の悪の世界はどんどん悪化し、壊滅的な終末を迎える。その時に神が奇跡的に介入し、悪は滅ぼされ、神が支配する新しい時代が来る」というものです。この「神の介入」がメシヤの到来を意味する場合もありますが、メシヤは普通の人間である場合と、天的な特別な存在である場合があります。さらに、この介入時には死者の復活が伴うパターンもあります。この黙示思想はユダヤ教すべてが持っているわけではありません。また、黙示思想自体、過激なものから穏健なものまで様々です。復活に関しても、それを保持するパリサイ派と、拒否するサドカイ派の論争は福音書にも登場します。しかし、パリサイ派は現生を否定するよりも、律法厳守によって神の国の到来を早めようとしたのに対し、熱心党は、それを武力によって実現しようとしたなど、方向性は様々でした。ですからこの論争は単なる「神学論争」ではなく、実際的、政治的な意味合いも持っていたのです。黙示思想側をもたないサドカイ派や祭司たちは、この世界をもう少し肯定的に捉え、ある意味では常識的な立場でしたから、体制側と言ってもよいでしょう。
ここで肝心なのはイエス様です。復活そのものは当然肯定されますが、その内容についてはパリサイ人とは全く異なる革新的なものです。律法厳守による神の国実現も否定されました。武闘派でないことも言うまでもありません。必然的に、黙示思想の他の側面との関係が問題となります。そして、このことはパウロでも同様です。そこで、黙示思想に含まれる様々な要素を理解することが必要となりますが、まずは大枠から見ていきましょう。
詳細はどうであれ、今と異なる新しい時代が来るという点は変わりません。つまり、終末思想という否定的な響きに反して、根本的には未来志向の肯定的な思想だという部分が忘れられがちです。激動の時代を超えてハッピーエンドを迎えるドラマに似ているとも言えます。ただし、ドラマには終わりがありますが、新天地に終わりはありませんから、やはり根本的に異なります。いずれにしてもまず私たちに問われるのは、そのような世界観を共有できるかという点です。イエス様はもちろん、パウロのこの点については一点の曇りもありません。8章では、全被造物の贖い、11章ではイスラエルの完成のビジョンが壮大に描かれています。そしてそれが神への賛美でしめくくられているのです。賛美は、まずは神ご自身のご性格・ご性質に対してのものです。しかしそれらは、被造物から離れて考えられただけの抽象的なものではなく、歴史を創造される神のわざに対するものでもあるのですから、この「未来志向」は本質的なものです。もちろん、この志向は、歴史の現状分析の結果からくるのではなく、神ご自身への信仰からくるのですから、歴史学や自然科学との整合性とは別の次元の話です。
ここで、この「別次元」と、「通常の次元」との関係が問われることになります。歴史の現状分析からは明るい未来も暗い未来も単なる推測の域をでません。また、科学の立場からは、(人間社会や地球環境を超えて)この宇宙の有様が急に激変することも想定できません。従って、この「別次元」は通常の世界に「介入」してくる他はないでしょう。それが「カイロス」です。問題は、それがいつどこで、どのように起こるかという点です。パウロの時代、すなわち新約聖書の初期の文書(パウロではローマ書まで、福音書ではマルコとマタイ)が書かれた時代は、この「カイロス」がすぐに起こると期待されていました。しかし、黙示思想の語る「艱難」であると思われた神殿崩壊が起こっても再臨がなかったことから、「カイロス」の根本的な再解釈がなされるようになりました。新約聖書の後期の諸文書はそれを反映しています。このことは、聖書は常に歴史とは関係ない「同じこと」を語っていると信じている人には馴染まないかもしれません。その場合、当時、すぐに起こると想定されていた終末的事柄は、実はこれから「すぐに」起こるのだという方向で解釈します。(しかしそれでも、当時の人達が「誤解していた」ことをどう解釈するのかが問題となります)。先の事はだれにもわからないのですから(イエス様ご自身が明言されています)、そのようになることも否定はできません。しかし、そのような所謂「予言」は歴史上何度も繰り返されては外れてきたのも事実です。ですから、わからないものはわからないとしなければならないでしょう。まずは、聖書自体に「歴史的な経緯」があることを踏まえることが必要です。そして、それがあるからこそ、刻刻と変わる歴史の現実に対するメッセージを発信し続けることができるのです。(因みに、歴史的要素を尊重するなら、黙示録も基本的には当時のローマ帝国に関する記述であると解されます。その上で、現代への応用を考えます)。
以上のような文脈の中で、パウロの語る「カイロス」は、あくまでもキリスト中心です。キリストが来られたことが神の決定的介入の時です。そして、それは聖霊の働きという新時代の幕開けでもあります。キリストの再臨はその完成であり、私たちはその中に生きているのです。ですから、夜が更けて昼が近づいたというのは、この聖霊の働きが進んでいることを意味します。言い換えると、キリストとの相互内在の時代がすでに始まり、それが歴史的に展開していくということです。この「展開」が次にどのような時期・形で区切りを迎えるのかは、まさに「神のみぞ知る」ことですから、それを詮索することに意味はありません。肝心なのは、聖霊の働きという方向性です。そして、その働きの中に「御霊の実」が結実するのです。パウロはその具体的な面も語るのです。