礼拝メッセージ要約
2025年6月15日 「隣人愛」
ローマ書13章
6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。
10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
地上の権威に服することについてパウロは語っています。前回考えたように、この問題は複雑です。納税やみつぎは、経済・政治問題にとどまらず、偶像礼拝にも関わるからです。これは14章で扱われます。パウロはその話に進む前に、今一度律法との関わりについて語ります。それを、義務・負債という観点から取り上げています。
税は義務であるというのは、単にそう決まっているからだけではなく、現実にそれが負債でもあるからです。一般的に言えば、市民は市の行政から「借り」があるので、納税という形でそれを返すべきだということです。これに反対する人は、「私たちは税を払って市に貸しを作っているのだから、市は行政サービスという形で私たちに借りを返すべきだ」と言うでしょう。市民と行政の貸し借りについては正反対の見解が可能で、両立させるには、両者のギブアンドテイクとなるでしょう。これは、行政の話に限らず、商売において売る側と客との関係にも当てはまります。「売ってやってるんだ」対「買ってやってるんだ」の対立を超えて、ウィンウィンの関係が望ましいということです。
ただ、行政との関係に関しては、納税するよりも前から行政サービスを受けているのが通常ですから、順序から言えば、借りを返すと言ってもよいでしょう。そもそも、行政サービス以前に、私たちはすでに存在している自然と社会の中に生まれてくるのですから、まず「受ける」立場であることには変わりありません。パウロはこの話から、より基本的な律法の話に進んでいきます。
8節に、だれに対しても、何の借りもあってはならないとあります。行政との関係だけではなく、対人関係全般の話に拡大しています。この文を「一切の借金(ローンも含む)の禁止」ととる人がいます。そうなると、キリスト者は住宅ローンも組んではならず、即金で払える人以外は家が買えないことになってしまいます。しかし、行政に対しては借りを返せと言っているのですから、これは無理な解釈でしょう。行政に限らず、だれに対しても借りは返すべきであり、返せないものは借りるなと常識的に解釈すべてきだと思われます。そして、この「常識」には例外があるというのが、ここでのパウロの話です。
その例外とは、金銭や物品ではなく「互いに愛しあうこと」です。(この愛とはアガぺのことです)。この「アガぺ」が負債であり、返すべきであるにもかかわらず、決して返し終わることはできないというのがパウロの主張です。これは、「仲良くするのはお互い様」という意味では常識的にも思えますが、実際には難しい話です。「他人から愛されているのだから、その人に愛のお返しをしなさい」となると、愛してくれていないなら愛する必要はないとなってしまいます。もちろん、これを拡大解釈して、「借りがなくても返せ」ととることもできます。もはや借りではなく、純粋に「与える愛」だということになるでしょう。もちろん、アガぺが与える愛であることは言うまでもありません。しかし、ここでの論旨はやはり、アガぺが義務であるというところにあるでしょう。そして、この義務は、人に対してではあっても、元来神から課せられているものなのです。ですからパウロはここで律法の話をすることになります。
それにしても、ここまで論を尽くして「律法からの解放」を語ってきたパウロが、また律法に逆戻りするのかと疑問に思うでしょう。まして、神の全面的な恵みが原点であるのに、まるでそれが神からの借りであるかのようにとられるなら、今までの議論は何だったのかということになります。しかし、律法からの解放とは、律法からの卒業のことですから、当然そこには「律法の完成」という意味もあります。(中退ではなく卒業です)。10節で、アガぺは律法を全うすると書いてあるとおりです。(律法から卒業するのは聖霊によるのですから、アガぺは聖霊のわざということになります)。
卒業にせよ完成にせよ、そもそも律法の中身がわからなければ始まりません。律法の役割は「システムの維持と形成」であることはすでに見てきたとおりです。しかし、律法は神の御心を反映しているのですから、その中身が重要なのは言うまでもありません。古来ユダヤ教では、律法をいかにまとめるかについて議論されてきました。(まとめるのは、その精神のエッセンスを明確化するためです)。一番短い要約は「神はご自身のかたちに似せて人を造られた」というものです。より一般的なのは、「心を尽くし〜主なる神を愛せ」と「隣人を愛せ」の二つに要約したものです。(後者は、福音書の中でキリストの言葉としても記録されています)。これらの要約に異論はほぼないでしょう。問題はその中身です。パウロは(ヨハネも)律法について語る時に、「神を愛せ」という部分には触れず、隣人愛だけを説く傾向があります。まず神が私たちを愛してくださったという、恵みの事実から出発しているからでしょう。そのような私たちが神を愛するのは、聖霊の愛が注がれているからです。人間の決意や努力によるのではありません。それに対して、隣人は神とは異なります。聖霊の導きによるとは言え、単に受け身でよい話ではありません。そして、神を愛することと隣人を愛することの両方が、聖霊の働きという点では共通である以上、そのふたつを切り離すことはできないのです。
律法を、その精神に立ち返るならば、聖霊の働きとして受け取るべきです。そして、それが「アガぺ」の働きであるのは当然です。ただしここで問題となるのは、隣人とはだれのことかという点です。このことについては、すでに何度も見てきました。原文の「あなたがたの隣人を自分のように愛せ」は、自分を愛すように隣人も愛せと理解される傾向がありますが、直訳すれば、「あなた自身のような(同類の)隣人を愛せ」となります。つまり、隣人とは自分と同類の存在のことを指します。これを常識的に解せば、家族、親族、同じグループ(民族、国家、宗教など)に属する者ということになるでしょう。しかし、ユダヤ教でも「神はご自身に似せて人を造られた」ことが律法だという解釈があります。すなわち、隣人とは人間すべてを指すという一歩進んだ解釈です。そして、その「人」とは神のかたちに似せて造られたという所から、隣人愛と神に対する愛がつながっています。すぐれた解釈でしょう。
しかし、以前にも述べたように、キリストは「自分が隣人となる」という革新的なことを言われました。と言うのは、「人は皆神にかたどられた」と原則論を言うだけで、現に存在している区別や差別を超えることができる程、現実は甘くありません。むしろ、自分と他人は異なるというのが出発点でしょう。そもそも、他者が自分と同じはずだ、あるいは同じでなければならないと考えること自体が思い上がりなのですから。その上で、自分の方から同類に「成る」のです。これが、キリストの姿であり、ローマ書12章で語られた内容でもあることは明らかでしょう。その時に、隣人に対して「悪を行わない」のは当然の結果なのです。