礼拝メッセージ要約
2025年6月8日 「上に立つ権威」
ローマ書13章
1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
パウロは、迫害者を祝福し、彼らのために祈れという、いわゆる「愛敵」について語った後、必ずしも敵とは限らないケースについて触れます。「上に立つ権威」との関係です。この箇所は、そこだけを切り取って読むならば、論旨は明確でしょう。ここでの「上に立つ権威」とは、国家権力ないしそれに準ずるものです。4節にあるとおり、彼らには悪を罰する力があり、いわば秩序維持の権威を持っている存在です。ここでの論旨とは、その権威は神から与えられたもので、それに逆らうのは、神の定めに背くことになるというのです。ここで「神の定め(単数)」とは、諸々の法律のことではなく、地上の権威が神から与えられているという事柄を指します。
このパウロの言葉は、古来「王権神授説」の根拠とされてきました。王でなくとも、様々な政治権力に当てはまることは言うまでもありません。いわば、キリスト教世界で、権力側が自己正当化する際の聖書的根拠という位置づけです。しかし、ここの箇所に限らず、聖書は一ヵ所から拙速な結論を導くことはできません。全体を読むというのが基本です。聖書全体において、地上の政治勢力が絶対であるという考えは全くありません。旧約は、神に背く悪質な王が続出し、神の裁きが度々くだったことの記録でもあります。そのような王に対して、預言者たちは命をかけて警告を重ねました。また、外国の王たちから、偶像を拝むように強要されても、断固として拒否してきたのです。新約の時代でも、「人に従うよりも神に従うべきである」と言って、福音宣教を禁止した権力に従わなかった記録があります。権力への無条件・絶対服従が聖書の教えでないことは明らかでしょう。
その上で、パウロのこの箇所をどう解釈するかについては、もちろん様々な見解がありますが、まずは、当時の状況を考える必要があります。そのころのローマは、一時的とは言え、ユダヤ人に対して比較的融和的な政策をとっていました。一方、ユダヤ本国では、熱心党などの武力を含む反ローマ闘争の火はくすぶっていました。そのような中で、キリストご自身が、「カエサル(ローマ皇帝)のものはカエサルに、神のものは神に」と語られたことは有名です。この言葉の解釈は難しいものの、占領軍であるローマの兵士に対して、非暴力的態度を勧められたことは明らかです。また、エルサレムが攻撃される時には、抵抗せずに逃げるようにとも言われました。(現実もそうなりました)。パウロも、ローマにいる信徒に向かって書いているのですから、上に立つ権威とは当然ローマの権力です。まして、彼らはユダヤではなくローマにいる以上、合法的な統治者であるその権威に従うべきなのは当たり前の話にも思えます。しかし実情は単純ではありません。当時露骨な迫害は無かったとしても、日常生活に組み込まれていた偶像崇拝という問題があったからです。税を納めることが問題になっているのも、経済ではなく偶像をめぐる宗教問題だったからです。このテーマは14章で扱われますので、ここでは深掘りしません。
周知のように、ローマ帝国は、その後、キリスト者を徹底的に迫害するようになります。そのような時代に書かれた「黙示録」では、ローマは悪魔による存在として、徹底的に断罪されています。その中で、多くの信徒が、皇帝礼拝を拒否し殉教したことは言うまでもありません。そして、そのローマもやがて滅ぼされる幻が語られているのです。ですから、ローマ書と黙示録の世界は対照的ですが、歴史的にはどちらも現実であり、そのことは今日も変わりありません。あらためて、神と「権威」との関係という原点について考えます。神から権威が与えられているはずの「権威」が神に背いている時に、私たちはどうあるべきかという問題です。そして、そのようなことは珍しいどころか日常茶飯事であると言えるでしょう。だからこそ、古代には預言者がおり、例えば現代には選挙制度があるのです。このような、権威・権力が神に背くという自己矛盾状態にあるならば、従うべきではない考えが当然あります。権威が自らを否定している以上、それはもはや「権威」とは見做されないからです。その時には、「人ではなく神に従うべき」という、使徒の働きにある言葉が活きてきます。
しかし、ここにも問題があります。一つは、「権威」が神に背いているかどうかを、いかに判別するのかということ。もう一つは、仮に背いているとしても、「不服従」はどのような形が求められるのかという問題です。大戦中のドイツで、多くの教会がナチスに流されていた時、それに抵抗し、最後はヒトラー暗殺計画に関わった容疑で処刑されたボンフェッハー牧師の話は有名です。ナチスが悪であっても(それさえも再検討すべしという人たちもいますが)、暗殺まではいかがなものかという意見も当然あるでしょう。彼の答えは、暗殺も悪であり、神の裁きは免れない。しかし、より大きな悪を阻止するために小さな悪を選択しないのは逃避であるというものでした。その小さな悪も、悪は悪である以上裁かれる。しかし、それによって他人を助けることは道徳的要請でもあるという考えです。12章の末尾には、「善によって悪に打ち勝て」とあり、より小さな悪でも選択すべきてはないという考えもあるでしょう。反対に、他者の罪を自ら引き受けることこそキリスト者の務めだという考えもあります。これは、戦争への関わりにもつながる問題で、簡単に決着がつくものではないでしょう。個別のケースごとに、祈りの中で聖霊の導きを求め、主体的に選択していく他はありません。
ナチスの話は決して過去のことではなく、また、ドイツだけではなく日本の問題でもあります。ただ、そのような大きい課題だけでなく、身の回りのことにも注意が必要です。パウロは、国家権力に限らず、あらゆる「権威」についても語っている以上、たとえ剣は帯びていなくても、宗教権威にも当てはまる話でもあるからです。キリスト教でいえば、ローマカトリック教会のように、最高権威が定められている団体があります。プロテスタントはそれを認めず「万人祭司」の立場ですが、それでも、個々の教会や団体の中に「権威」が存在することはあり得ます(例えば牧師)。そして、その権威が神からのものであると宣言されてしまえば、彼らに反対することは不可能となってしまいます。これが徹底すれば、カルトになるでしょう。もちろんこの場合でも、国家権力の場合と同様、宗教指導者自身が神に背いているならば、彼らの権威は失効していると考えることもできます。それにまつわる判断や選択の重要性についても、同様の話となるでしょう。すなわち、聖霊に導きのもとに主体的に選択する道です。権力の絶対化とはカルト化であり、それ自体が偶像礼拝です。私たちはそのようなものから自由でなければなりません。同時に、一切の上下関係を否定し、権威そのものの存在を否定するような考えも、神の権威そのものを否定する「自己崇拝」の道であることを覚えておかなければなりません。私たちは、神のしもべであり、その限りにおいて自由なのです。