礼拝メッセージ要約

202561日 「復讐について」

 

ローマ書12

14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。 

15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 

16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 

18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。 

19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 

20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 

21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 

このセクション最後の部分です。迫害する者を祝福することから始まり、平和を作ることに話は進みました。平和は相手があって成立します。その相手が応じるのかが今回のテーマです。すなわち、敵にどう対するかということです。言うまでもなく、イエス様ご自身の「敵を愛せよ」という有名な言葉がその原点です。このいわゆる「愛敵」の精神はしばしば語られ、また論議の的になります。ここでも、「愛」という言葉は一旦置いて、「アガぺ」の観点から学んでいきます。

 

まず19節に復讐の禁止があります。まずは、日常のシーンについて考えます。長い期間にわたる人種差別や内戦ののち、とりあえず平和が訪れた時、以前の被害者側が加害者側に復讐をする可能性があります。しかし、それを敢えてしないことによって(すなわち、ある種の和解をすることによって)その後の安定した社会形成を促せることもあり得ます。復讐の応酬は際限がなく、両者にとって良いことはありません。とは言え、現実には、そのような和解は稀なケースではあります。以上はあくまでも一般論です。

 

イエス様の「愛敵」の場合、その敵とは、当時ユダヤを支配していたローマ側権力でした。熱心党などの武力解放闘争を進める勢力と一線を画すという、実際的な側面がありました。もちろん、その背後には、善人の上にも悪人の上にも雨を降らせる天に例えられる、天の父の慈愛があることは言うまでもありません。しかし、そのことで、もはや善も悪もない、いわば真っ平な無差別主義になるかと言えば、そうでもないでしょう。イエス様の教えの中に、神の正義と厳しさもまた保持されているからです。このことはパウロでも同様です。彼の時代は、ローマ帝国が比較的落ち着いていて、キリスト者を組織的に弾圧していたのはユダヤ側でした。もちろん、ローマとの政治的対立とユダヤ側との宗教的対立には異なる要素もあります。しかし、相手がだれであれ、呪ってはならず祝福すべしという原則は変りません。

 

ここで最も重要なテーマは、復讐の行為そのものと復讐心の問題です。これは、現代の刑事問題にも関わることで、例えば、被害者の処罰感情をどう扱うかというテーマにもつながります。さて、20節の「敵によくしてやれ。彼の頭に燃える炭火を積むことになる」とはどういうことなのでしょうか。実は、この節の解釈については、古来さまざまな議論があり、正解はわかりません。ある人は、古代社会で、「燃える炭火を頭にのせる」ことが、悔い改めの表現だったので、被害者の温情に触れた加害者が自分の非を認め恥じるようになると解釈します。旧約聖書にもそのような事例がありますし、現実社会でも実例は見られます。平和を作る者という言葉にふさわしいでしょう。しかし、平和を作るのは、あくまでも自分に関してであって、相手を制御することはできません。このことは、たとえ敵を祝福した上でも変わらないでしょう。加害者が常に悔い改めるとは限らないのです。(パウロは悔い改めましたが)。そのような不幸な事例もまた数多くあります。

 

「燃える炭火」の解釈は他にもありますが、いずれも、燃える炭火が怒りや復讐ではないと解釈しようというものです。そうでないと、結局キリスト者も復讐心はあり、ただそれを自分で実行しないだけになってしまうからでしょう。いわゆる無条件の博愛主義に反するというわけです。しかし、聖書を普通に読む限り、そのような博愛主義に反するような記述はあります。そして、それが「キリスト教は不徹底だ」という他の宗教からの批判や、「キリスト教道徳は、弱者による裏返しの権力志向だ」という哲学者や心理学者の批判にもなっていきます。実際、ヨハネの黙示録を、そのような復讐心抜きで読むことは不可能でしょう。ですから、私たちは博愛精神を説くだけでなく、リアルな現実に即して考えなければなりません。

 

今とりあげているのは、被害者の温情に触れても加害者が悔い改めないケースです。その場合の対応には3つのパターンが考えられます。復讐心は滅却されるべきなのか(A)、あるいは、自分から神に「移転」して、別の形で維持されるのか(B)、それとも、復讐心はあってもそれを実行せず、実行は神にまかせるのか(C)というパターンです。(AとCが対極で、Bが中間と見ることができます)。Aはある種の「解脱」の道で、崇高ではありますが、社会正義とは無関係の方向性です。Cは黙示録も含む黙示思想一般の傾向で、社会性の強い宗教に見られるものです。Cは、Aから見れば「不徹底」となり、逆にAは、Cからは「正義を無視している」と言われるでしょう(問題を被害者個人の心理だけに絞ってしまうということ)。確かに、どちらか一方になれば分かりやすいのですが、現実はそう単純ではありません。

 

これは、キリストの十字架と再臨の話でもあります。十字架は「赦す」ためであり、再臨は「裁く」ためだということは聖書の記述にもあります。「赦されたのなら裁きはないはずだ」という主張と、「裁きが原点で、赦しはその執行停止に過ぎない」という主張が対立します。キリスト者は、しばしばその両者の狭間で悩むのです。

煎じ詰めれば、赦しと裁きの両立、すなわち、あわれみと正義の両立の問題です。十字架のお方と再臨の主が同一の存在であるのは、神がキリストを通してそれを実現したということです。この両者は本質的に相いれません。ただ、ユダヤ的には「義」が「施し」を意味することから、義とあわれみが連続しているとも解釈できます。それでも、やはり悔い改めない迫害者のケースのように、裁き抜きに義を語ることには限界があるでしょう。「赦されざる者を赦す」のが真の赦しであると共に、なお正義は正しい裁きを要求するという二面は、安易に合体させることはできません。

 

この両者の矛盾を解決することは、図式的にはできません(曖昧にして和らげることはできますが)。十字架と再臨についても、一般的に行われるのは、十字架の効力を特定の人(信者)に限定し、それ以外の人には裁きがあるというように、両者を対象者によって分けて、矛盾を避けるという方法です。方法としては可能かもしれませんが、そもそも両者は共に神のわざなのですから、神ご自身のご性格をどう受け取るかという根本的な問題は残ったままです。確かなことは、神の中には「復讐」の要素が保持されていることです。すなわち、正義の要求はどこまでも維持されなければならないのです。同時に、キリストは罪のための供え物として完全であるという事実もあります。この両者は、究極的には矛盾していて、その矛盾そのものをキリストが体現されているのです。私たちに求められているのは、矛盾する両者を切り離さずに、そのままの状態で受け取ることです。すなわち、キリストとつながること、相互内在の現実に生きることです。復讐(正義の追求)は神に属しますが、私たちはキリストと共に神につながっているのですから、キリストにあるアガぺの現実に生きることがすべてなのです。