礼拝メッセージ要約
2025年5月25日 「普遍的な立場」
ローマ書12章
14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
前回の最後に、「旅人をもてなしなさい」とありました。旅人とは、要するに「外部の者」という意味です。パウロは、もてなすことを「追及せよ」と言っていることから、この追及の向かう方向が見えてきます。すなわち、「外部の者」とはだれなのかという追及です。ちなみに、福音書には隣人を愛せという命令に対して、だれが隣人なのかと尋ねた弟子の話がありますが、類似のパターンです。このような問い自体は貴重です。言葉をただ表面的に受け取るのではなく、それが具体的に何を示しているのかを追及するのは学問の基本でしょう。特に、ユダヤの世界(すなわち律法の世界)では、これは必須です。律法の条文は具体的でなければ機能しないからです。外部の者がだれなのかという問いも必然です。隣人の場合、弟子たちはそれを狭い範囲で限定しようとしました。(限定しないと明確にならないというのは、日常的には正解でしょう)。それに対して、イエス様は、自分が隣人になるという別の方向を示されました。いわば、既存の世界を切り取って「隣人を限定する」のではなく、新しい隣人の世界を創造されるのです。パウロも「創造」ではありませんが、追及によって限定ではなく拡大していく方向は同じです。「外部の者」を、数ある人の中から「訪問してきた旅人」に限定するのではなく、その極限を見ました。その一つが迫害者なのです。
14節から12章の終わりまでは、この「迫害者」のテーマが中心となりますが、それに限定されているわけではありません。基本は「外部の者」、すなわち、キリスト者ではない一般の人たちとの関係が主題です。キリストのからだ(内部の者)の話が、外部にどう適用されるのかという観点から読んでいくことになります。「迫害者を祝福する」ことや、19節以下の「敵」に関することは後回しにして、極限ではない、より日常的なレベルのケース(15節から18節)を見ていきましょう。
15節は、一般的には「同情と共感」の勧めと解されます。悲しんでいる人に寄り添うことの大切さはもちろん、喜びを共有することの難しさ(すなわち嫉妬の危険性)についても知られています。それはその通りですが、ここでの文脈は、そのような正常な感覚を「外部の者」に対しても持っていなければならないという点です。道徳を一般論として語るのは容易でも、それが現実の中でどう機能するかは別なのです。「キリストのからだ」は律法を超えた聖霊の場です。それは、ある意味では神の民であり、祭司でもある特別な立場でもあります。その「聖性(神によって分けられた存在)」は、救いの目的そのものなのですから、それを無視することなど不可能です。しかし、その「聖(分けられたもの)」は必然的に内部と外部を分けることになります。その両者をつなぐものは何なのでしょうか。それが「アガぺ」であり、パウロはこのアガぺについて語っています。そして、そこに含まれるのが、道徳と常識です。つまり、共通点を見出し共有する働きです。
言い換えると、アガぺは特定の集団(特に選民意識がある民族、国家、宗教)のカルト化を許さないということです。すなわち、外部の者が悲しんですることに対して、「そんなことは大した問題ではない」と見放したり、彼らが喜んでいることに対して、上から目線で馬鹿にしたりして、自分は彼らとは違う特別な存在なのだと思うなら、そこにアガぺはありません。アガぺの欠如による自称選民とは、すなわち律法によって自らを武装した「カルト」なのです。集団がカルト化してしまえば、もはやそこに常識も道徳も通用しません。言い換えると、普遍なき特殊に固執し、がん細胞のようにからだを蝕んでいく存在です。そのような存在が実際に「カルト」と認定されるまでの道のりは遠いかもしれません。しかし、たとえ目立たなくても、アガぺはそれを許さないのです。
16節以下もこのことについて述べています。ちなみに16節の「順応しなさい」までは、15節の分の修飾です(つまり、共感についての付加です)。キリスト者共同体の内部でも語られていた「謙譲」が、ここでは外部との関係についても繰り返されています。相手より上ではなく同じ考えのレベルであること、さらに、より低いレベルでもあること(身分に限定されてはいません)が述べられています。前に「この世と同じ考え方ではいけない」と学んだのに、ここでは同じ考えが言われているのは不思議な感じがするかもしれません。しかしここで言われているのは「上下関係」ですから、考え方の質までが同じであるわけではありません。自慢し他を見下すのがこの世の考え方であるとすれば、当然その反対に謙遜し他を尊敬するのです。しかも、これが「外部の者」に対して行われるべきだというのがポイントです。
以上の内容が、16節の最後の部分にまとめられています。「自分が知者だなどと思うな」とありますが、この「知者」とは単なる知識人のことではありません。ここでの「知」はこれまで何度も繰り返られている「考え」ですが、内的なアイデアが外的な行動に反映される事態ということで「志向」などと読んできました。この文を直訳すると、「あなたがたは、自分自身にそって、志向(が増す)状態であってはならない」となります。意訳すると、(外部の人より)自分が「意識高い系」であろうとするなという感じでしょうか。単に、他者より多くの情報を持っているというよりも、「(より高いレベルの)知者になり続けよう」という意識の問題です。さらに、それが「自分自身にそって」行われるのですから、自己啓発系の話とも言えるでしょう。このことは、自己啓発そのものを否定するというよりも、外部の者との関係において、自分のほうが優れていたいという思い(志向)が問題なのです。
すなわち、私たちは、他人との比較で自分の特殊性を弁護しようとする誘惑に陥るのではなく、普遍の立場から外部の者とも接触するということです。17節に、悪で悪に対抗するなとあります。普遍の立場というのは、相手がどうであれ、良いものは良い、悪いものは悪いということです。ただし、何が良くて何が悪いのかを、どのように判定するのかという問題があります。それは、ローマ書全体から学ぶ必要があります。ですから、すべての人が良いと思う事を図るというのも、単なる多数に同調するということにはなりません。そもそも、すべての人が「何が良いこと」なのかについて合意することは難しいでしょう。人は自分の立場から判断しますから。ですから、この「すべて」は、文字通りの全員ということではなく、あくまでも普遍を意味していると解すべきでしょう。つまり、内部と外部両者に共通する普遍的な立場です。これは、これまで何度も触れてきたように、真に唯一の神を信じるならば当然のことです。そして、それは実践につながります。18節にある、「自分に関する限り、すべての人と平和を保つ」という実践です。キリストのことばに、「平和をつくる者は幸いである。その人は神の子どもと呼ばれる」とある通りです。平和は自動的に与えられるのではなく作るものです。したがって、相手のあることです。相手が応じない場合はどうなるのか、それが12章最後のテーマとなります。