礼拝メッセージ要約
2020年12月27日
伝道者の書7章14節
「一年を振り返って」
「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」
2020年最後の日曜礼拝ということで、一年を振り返りながら、みことばに耳を傾けましょう。
この言葉は、一見あまりにも常識的で、わざわざ聖書を持ち出すまでもないものに見えます。
しかし、聖書からキリストの福音を受けることが大切ですので、丁寧に読んでいきましょう。
常識的な読み方では、例えばこのような話になります。
「日本は政策として、インバウンドを増やして経済を活性化しようとしてきた。しばらくは好調で各方面も儲かり喜んだ。ところが、コロナ禍によってインバウンドは止まってしまった。この逆境に際して反省しなければならない。インバウンド受容に頼らない方法を考えるべきか。それともコロナ禍が収束するまで、各種キャンペーンによって国内需要を喚起し、何とか観光ビジネスを維持するのか」といった類のものです。
話は単純ですが、答は難しい問題です。
伝道者の書の言葉は直訳するとこうです。まずは前半です。
「良い(美しい、好ましい、嬉しい)日には、良い(美しい、好ましい、嬉しい)状態であれ。」
環境が良い時には、あなたも良い状態であれというのは、一見当たり前ですが、実はそうでもありません。
この文は命令ですから、実際は環境が良くても自分の状態は悪いことがあるということです。
良い境遇の人が皆善人になるわけではないし、厳しい環境で育った人は悪人になるわけでもありません。
人は環境の影響を受けますが、人の本質的な部分は、いわゆる家庭環境や社会環境だけでは決まりません。
善人が作る社会は天国であっても、悪人が天国に入ったからといって善人になるわけではないのです。
ですから、「良い状態であれ」と言われても、私たちは、どのような状態なら本当に良いのかを問わなければなりません。その意味では、常識的な読み方同様、話は単純ですが、答えは難しい問題です。
神が天地を創造された時、被造物をご覧になり、「良い」と言われました。
一方で、人は禁断の実を見て、それは食べるのに「良い」と思ったのです。もちろん、それは悪いことでした。
言い換えると、物それ自体は良いが、それに関しての行動の仕方は悪いという状況があるということです。
分かりやすい例は「性」です。男女の性行動は、それが創造の秩序にかなう限り良いものですが、秩序から離れれば悪いものになってしまいます。食欲や向上欲など、様々な欲望でも同様です。
それなら「欲望」はどんなものでもそれ自体は良いものなのかと言えば、そうとも限らないのが難しいところです。
人間は善悪の知識の実を食べた以上、自ら善悪の判断をしなければなりません。
それにも関わらず、その判断が正しくできないということ、これが人間の姿であり、そこから逃れられない悲劇的な存在であるという認識が出発点なのです。
後半を読みます。直訳すると「悪い日には見よ」です。日本語訳では「逆境の日」となっていますが、必ずしも逆境とは言えなくても、とにかく悪い日、悪い状況すべてです。
これも、まずは何をもって「悪い」というのかが問題となります。
コロナ禍で逆に儲かっている業種もあります。逆境どころか順境でしょう。しかしそれなら、コロナ禍は良い日なのかと言えるのかということです。
自分にとっては良い日だが、多くの人にとっては悪い日だということでしょうが、話はそこから始まります。
これは逆もあります。自分にとっては悪い日だが、多くの人にとっては良い日だという状況です。
感染症に携わる医療従事者にとって、今は非常に悪い日々です。しかし、その方々の犠牲によって何とか医療が継続されていて、その恩恵にあずかった人にとっては、治療してもらえたことは良かったことになります。
それなら、医療従事者の犠牲に頼るのが良いのかと言えばもちろん良くありません。
全体としてコロナ禍が良いなどという結論は出ません。
そのような時に、聖書は「見よ」と言います。
いったい何を見るのでしょうか。人は悪い状況を直視しようとしない傾向があります。
現状を直視せよということでしょうか。危機管理のイロハで言われるように、最悪を想定し対策を考えよということでしょうか。
もちろん、そう意味もありますが、聖書ならではの内容もあります。
神は被造物を「見て」良いと言われました。人は禁断の木の実を「見て」良いと思いました。
「悪」についても「善」と同様、何を見るか、どのように見るかが問題なのです。
コロナ禍で、私たちは色々なものを見ています。ウイルスについて、免疫について、検査やワクチンについて、社会の規範について、仕事の仕方について、政治の在り方について、家族や友人の人間関係について、実に様々です。今まで当たり前だったことが当たり前でないことが見えてきました。それはとても大切なことです。
ただし、人間の見方だけではわからないこともあります。
イエス様は「空の鳥を見よ」と言われましたが、同じものを見ていても見えているものが同じとは限りません。
聖書の中心テーマは言うまでもなく、キリストの十字架です。
無実の罪で受ける十字架刑は、逆境の日の最たるものでしょう。そこでキリストが見ていたものは何でしょう。
そして、私たちはそれをどのように見るのでしょうか。これがテーマです。
聖書にはそのヒントがあります。ひとつは、イエス様の弟子たちの様子です。
自分たちの師が十字架刑に処せられるというのは、まさに彼らにとっても最大の逆境でした。その時の彼らの反応から、彼らが何を見ていたかがある程度推測できます。
そして、その後、彼らが大きな変貌を遂げた時に何を見ていたのかということも伝わってきます。
これらを手掛かりにしつつ、私たちも、この逆境の時代にあって、あらためて「十字架」を見ましょう。
そして、そこを通して「復活」の世界に触れましょう。
その上で、「十字架」と「復活」の光の中で、あらためて自分と社会を見直し、来年に向かって、聖霊の導きを求めていきましょう。
―考察―
1.今年の良いことと悪いことを振り返ってみましょう。
2.コロナ禍の中で何が見えますか?
3.十字架に何を見ますか?