礼拝メッセージ要約
2020年12月20日
ガラテア4章19節
「クリスマス」
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
今年は、イースターに続いてクリスマスも全世界的に異例の展開となってしまいました。
祝典の類のものは不可能となり、「世界で初めのクリスマス」のように、小さく静かなひと時です。
もちろん、これは悪いことばかりでなく、改めてクリスマスの意義を確認するチャンスでもあります。
クリスマスはキリストの誕生が主題ではありますが、同時にイエスを身ごもり産んだ、母マリアの役割にも光が当てられます。人間的には不可能な状況でも、神からのメッセージを信じ従順であった姿が、信仰者の模範とみなされるからです。
ただし、その「従順」は母マリア個人の在り方以上の意味があります。私たちとの深い関係があるのです。
キリストを産んだ者と、決して産むことはあり得ない私たちとの間に、何か繋がるものがあるのでしょうか。
そこで、冒頭にあるパウロの言葉に耳を傾けてみましょう。
パウロは、ガラテアの信徒たちが迷っている状況に対して、必死にメッセージを送っています。
彼の願い・目的は、ガラテアの人々のうちにキリストが形造られることです。
もちろんそれは、パウロとガラテアの人々だけのことではなく、私たちすべてに向けられた神の御心でもあります。
神が人類を救うというのは、地獄に向かってまっしぐらの人たちの行き先を天国に変えるというだけのことではありません。前回も触れたように、問題は私たちの住む場所(天国や地獄)よりも、私たち自身の在り方です。
そのあるべき姿とは、私たちのうち(中)にキリストが形造られることです。
これは、聖書全体のメッセージでもあります。
そもそも問題の始まりは、アダムとイヴの堕落です。
禁断の「善悪の知識の木の実」を食べた結果、彼らは楽園から追放されました。それは、彼らが「いのちの木」の実を食べられないようにするためでした。
以来人類にとって、「いのちの木の実」を食べる、すなわち、不老不死のいのちを得ることが悲願となりました。
古代からそれは呪術、ミイラ、宗教で説かれる「あの世」の世界、その他さまざまな形で追及されてきました。
そして現代に至って、ついに科学技術によってそれを現実化する道が開けてきました。
ひとつは遺伝子編集によって細胞の老化そのものを停止させ、肉体を不滅化する技術。もうひとつは、脳と人工知能を融合させ、精神活動を永遠化する技術です。
どちらも、自らの力によってエデンの園に再侵入しようとする試みです。
この流れの未来については、ふたつの反応があります。ひとつは宗教側からのもので、そのような神の領域を犯そうとすることは許されず、なお強行しようとすれば厳しい審判が下るであろうというものです。
もう一つは、アンチ宗教側からのもので、これによって、人類は神や宗教の呪縛から解放されるというものです。
両者は出発点が正反対ですから、当然議論は水掛け論になります。そうこうしている間に、技術自体は驚異的なスピードで進歩していきます。
ここで私たちは、問題の本質を冷静に考えてみなければなりません。
聖書のメッセージはこうです。神は私たちに「いのちの木の実」を食べさせたいと願っておられる。ただし、現状のように、間違った仕方で「善悪の知識の実」を食べた状態では、それを望まれない、ということです。
簡単に言えば、間違った状態で永遠に生きることは良くないということです。
そのような「永生」は、要するにそれ自体が地獄です。ですから、問題はどのような種類の永生を求めるのかということです。
神が求めておられるのは、神のこどもとしての永生です。ただし、そこに至るには前提条件があります。
それは正しい現状認識から出発すること、すなわち、善悪の知識を横取りすることで神になろうとしている現状そのものが的外れであることを認めることです。
要は、神から離れていることを悟り、同時にそのような自分を受け入れ、神のこどもとしてくださる恵みを受け入れることです。
神が私たちをこどもとするために、神の真のひとり子を私たちのうちに形作るという道を選ばれました。
そのひとり子は、まずマリアのうちに文字通り宿り、真の人として地上を歩まれました。
地上のキリストは、人としての制約を受けつつ、聖霊の無限の注ぎを受けることにより、神の子であると同時に人の子としての姿を現されました。
そして、神に背を向けている人々の罪を一身に背負い、十字架の上でいのちを捧げられたのです。
そして復活し、今や求めるすべての人に聖霊を注がれます。
その聖霊によって、キリスト=神の子が私たちのうちに形造られるのです。
「私たちのうちに」というと、「外側=肉体 内側=心」という図式を連想し、全てを心の持ち方に問題に限定してしまいがちです。
しかし、「うち」というのは物理的に内側というよりも、「そこにおいて」という意味に捉えるべきです。
聖霊が宿る心は、脳にあるのか腹(腸)にあるのかなどというのはナンセンスです。
そうではなく、キリストは、私という存在全体において形造られるというのです。
全体ですから、体も心も行動もすべてです。
そのような意味での「キリスト」は形造られるものです。造られるのであって、私たちが造るのではありません。
造れるのは、当然のことですが神おひとりです。
私たちの側から言えば、神に造っていただくということであり、それが唯一可能な道です。
神から離れた人において、神が神の子を形造るということ、これが神の恵みであり、神の義です。
そのためにキリストがマリアを通してお生まれになりました。
その出来事に思いを馳せつつ、キリストが形造られる恵みを感謝し、祈り続けましょう。
―考察―
1.「永生」を求めるということについて、どう思いますか?
2.母マリアについて、どう思いますか?
3.神はなぜ、あえて神から離れた人においてキリストを形造られるのでしょうか?