礼拝メッセージ要約

20201213

マタイ福音書517節から20

「山上の垂訓」J

 

続けて、山上の垂訓を読んでいきます。

今回は、「律法の成就」がテーマです。

当時も今も、キリスト教会は常に二つの問題をかかえています。

一つは律法主義で、もう一つは無律法主義です。この一見正反対の立場にどう取り組むかが問われています。

 

当時、教会はパリサイ派の人々と対立していました。パリサイ派は、自分たちの律法理解が絶対であるとして、その基準に合わないイエス様の弟子たちを、彼らの共同体から除外し、迫害していました。

また、教会の内部にも律法主義者がいて、キリスト信仰だけではなく、モーセ律法も守らなければならないと説いていました。

この立場の人たちは、モーセ律法を異邦人にも適用すべしと主張したので、実質的に、すべての人がユダヤ人になることを要求する「ユダヤ化主義者」とも呼べるでしょう。

 

この問題については、パウロが特に「ガラテア書」で詳しく扱い、「人はユダヤ人になって救われるのではなく(つまりモーセ律法とは関係なく)、ただキリスト信仰のみによって救われると明言しています。

パウロはさらに、「ユダヤ人化」の問題を超えて、モーセ律法に限らず、あらゆる「律法」が不十分なものであり、「律法主義」そのものが、律法の行ないについてのむさぼりを生じさせ、律法の目指すことを実現できないという深い真理をローマ書で述べています。

これを一言でいえば「律法なしの福音」と言えるでしょう。

ただし、その同じパウロがこうも書いています。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテア62節)

「律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。」

(第1コリント921節)

律法と福音との関係は深そうです。そこでマタイの話に耳を傾けてみましょう。

 

マタイによれば、イエス様は「律法を廃棄するためではなく、成就するために来られた」のです。

しかも、律法の一点一画も過ぎ去らないとも言われています。

律法あるいは聖書(この時代なら旧約)が成就するというのは、マタイがクリスマスの記事をはじめとして何度も書いていることです。

「成就」というのは「満たす」という意味で、律法では型が備えられていたが、キリストが来られて、その型に中身が満たされたということです。

ですから、律法の一点一画も過ぎ去らないというのは、あくまで「型」として律法、あるいは聖書は完全だということです。

 

もちろん、マタイは「律法の戒めを守れ」と言っていますから、表面的に読めば、結局モーセ律法の決まりを守れと言われているように読めます。

マタイが語りかけているのは主にユダヤ人であり、彼らにとって「律法」というのは思想や教理ではなく、あくまで具体的な行動や生き方の問題です。律法とは行うことなのです。

しかし、ただ戒律を守るだけでよいなら、そもそもキリストが来られた意味がなくなります。

キリストによってはじめて「型」が満たされるのですから、満たされたものこそが真の「律法」であり、それはもはやモーセの律法ではなく、「キリストの律法」と言えます。

もちろん、それはモーセ律法とは別のものではなく、モーセ律法という型が満たされたもの、律法の外側ではなく、中身そのものですから、律法は廃棄されたのではなく、成就したのです。

 

ただ、このイエス様にとっては当たり前のことが、私たちにとっては当たり前ではありません。型と中身を区別することがとても難しいのです。へブル書の表現で言えば、影と本体の区別ですが、本体が見えない者にとっては影がすべてであって、それが私たちにとっての本体と思われてしまいます。

しかし、それでは神の国(天の御国)にふさわしくないとイエス様は言われます。

イエス様は、私たちに必要なのはパリサイ人の義に優る義であると言われます。

パリサイ人の義とは、モーセ律法を行うことによって得られる義ですが、それは型をなぞることを追求しているだけで、あくまでも人間の義(正しさ)に過ぎないのです。要するに神の義ではないということです。

 

神の国にふさわしいのは、人間の義ではなく神の義です。

その神の義(正しさ)を表わすのが律法の中身、本体であり、キリストの律法と呼ばれるものです。

その具体的なあり方については、この後いろいろな形で語られていきますが、その前に確認をしておくことがあります。

 

それは、神の国についてです。イエス様のことばが難しいのは、私たちが「神の国にふさわしい」という言葉を、俗に言う、「死んだら天国に行く」というイメージで受け取ってしまいやすいからです。

普通、私たちが天国に行きたいのは、現生の苦しみから解放され、楽になりたいからです。要するに、理想的な環境に移されたいからです。

ところが、聖書の「神の国」とは、文字通り神の支配している世界であって、そこは神と神の子たちの国です。

その様な場所は、果たして居心地が良いでしょうか。

その「居心地の良い場所」に行くために、厳しい修行をしなければならないのでしょうか。

 

しかし、イエス様が語られている神の国(支配)は、いわゆる「あの世」ではなく、この地上にある現実です。

ただし、それは完成した国ではなく、現在進行中のものであり、貧しさも迫害もありながら、それらを克服していく神の支配です。(もちろん、それは将来完成に至るものです)。

そのような神の支配の具体的な形が「キリストによって成就した律法」であり、その律法によって表現されているのが「パリサイ人の義に優る義、神の義」なのです。

この神の国の中心におられるのが、言うまでもなくキリストです。

ですから、神の義とはキリストの義であり、キリストの律法とは、キリストご自身の行動です。

それが、私たちからかけ離れているのは当然です。私たちは罪人なのですから。

その私たちが求めるのは、私たち自身の義ではなく神の義であり、徹頭徹尾キリストご自身なのです。

 

―考察―

1.身近に型と中身の区別が難しいものがありますか。どのようなものでしょうか?

2.自分にとって居心地の良い場所とはどんな所でしょうか?

3.パリサイ人の義に優る必要を説かれた人たちは、何を感じたでしょうか?