礼拝メッセージ要約

2020126

マタイ福音書513節から16

「山上の垂訓」I

 

続けて、山上の垂訓を読んでいきます。

今回は「世界の光」がテーマです。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と書かれいています。

 

ここでは、まず「山の上の町」に触れた後、「あかり」について述べられ、最後に私たちに光を輝かせよと命じられています。

「山の上の町」は、マタイでは、だれからも見えるものの一例として述べられているだけなので、町や山について詮索する必要はありません。

ただ、この句のへブル語版では、定冠詞付きの山となっているので、その場合、山の上の町はエルサレムを指すことになります。

これは、イザヤ書2章2〜5節との関連が考えられます。

「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」

 

この時、エルサレムは主のことばが語られ、世界中の人々がその教えを受ける場所です。

また、主ご自身が世界をさばき、平和をもたらす所でもあります。

そして、その文脈の中で、私たちが主の光の中で歩むように促されています。

このことから、主の山は、神のことばによって光を照らし、神の義を打ち立て、平和をもたらす場所であることがわかります。そうすると、マタイの「光」ともつながってきます。

 

さて、その「光」ですが、この、いわゆる「あかり」のたとえは、他の福音書にもあります。

マルコ42節では「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」とあります。この訳では人があかりを持ってくるようになっていますが、原語では「あかり」が主語です。「あかりが来る」あるいは、「あかりが来られる」(受け身)です。

これは、ヨハネの「まことの光が来ようとしていた」とつながり、もちろん、イエス様ご自身が光として世を照らすことを表しています。

イエス様は、権力者からは排除され、弟子たちには裏切られ、民衆からも見捨てられ、あたかも闇に葬られたような存在でしたが、それでも、その光は消されることがなく、全世界を照らしています。

イエス様ご自身が「世の光」であるということが出発点です。(ヨハネ812節)

 

今や、そのイエス様が真のエルサレムの王となられました。ですから、山の上の町は、地上のエルサレム以上のものであり、上にあるエルサレム(天から下ってくるエルサレム)を指しています。そこは、神のことばが語られ、人々がひとつになる場所なのです。この「天から下ってくるエルサレム」は、「キリストの花嫁」とも呼ばれており、それは「キリストのからだ」でもあります。

私たちが、この「キリストのからだ」に属することができるように、キリストが十字架で、ご自身のからだを捧げられ、復活し、天に挙げられました。これが福音であり、闇を照らす光なのです。

 

さて、そのような「まことの光」に照らされた弟子たちは、今度は自分たちが「光」を照らすように求められます。ただし、照らすのは自分自身の光ではなく、あくまで「まことの光」、キリストの光でなければなりません。

その光は、具体的には神のことばであり、また平和をもたらす働きです。

イザヤ527節に「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。」とあり、

パウロは福音(良い知らせ)を告げる(すなわち宣教する)人々のこととして引用しています。

光とは、キリストの福音であり、光を輝かせるとは宣教のことであることがわかります。

 

マタイは「人々が、あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と書いていますが、ここで「良い」と訳されている言葉の原語は「美しい」という単語で、そこから、聖書では「立派な」「高貴な」という意味で使われています。

もちろん、これは、「クリスチャンが善行を積んで立派な人間になれば、人々は神を信じるようになる」とも読めます。反対にクリスチャンが悪行を積めば、神の名が汚されるというのはその通りです。

ただ、クリスチャンは、義のために迫害されるとも書いてあります。

必ずしも、世間的な意味で「良い人」と認められるとは限りません。

ですから、ここでの「美しい行い」(複数)とは、一般的な意味での善行というより、キリストの光を輝かせる諸々の行いのことであり、その光は、どんなものにも遮られることがありません。

 

キリストの光を輝かせるとは、具体的には、このように「宣教」を意味しますが、問題は「宣教」の中身です。

しばしば、宣教が、キリスト教の布教活動、すなわち、既存のキリスト教活動に新規加入をする人を集めることのようにとられてしまいますが、そのことと「福音宣教」は異なります。

「福音宣教」すなわち、イザヤの言う「良い知らせを伝える」とは、平和を告げ、救いを告げ、「あなたの神が王となる」、すなわち、神の国の到来を告げることです。

もちろん、その「告げる」とは、そのようなお話をすること以上であり、神の国のリアリティーを現すということです。

言い換えれば、十字架上の死で、神と罪人との間に平和を確立されたキリストが今生きておられ、その平和が人々の間まで拡大されるように、弟子たちを通して働いておられるということです。

イザヤは、そのような弟子たちの足(活動)は、美しいと語っています。

 

―考察―

1.「地上のエルサレム」と「天から下ってくるエルサレム」の違いは何でしょうか?

2.「光」は、どのような作用があるでしょうか?

3.自分にとって「宣教」とはどのようなものでしょうか?