礼拝メッセージ要約
20201129

マタイ福音書2223節から32
「復活の希望」

「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」(マタイ8:11

「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ223032

召天者記念礼拝にあたり、マタイ福音書から復活の希望のメッセージを読んでいきます。
福音書の時代、サドカイ派の人々は「復活」を認めていませんでした。
モーセ五書には「復活」の話は記されていないという理由で、死後のいのち等は信ぜず、現生のみの信仰生活を問題にしました。現代の多くの人々に通じる考え方です。
一方、パリサイ派の人々は、モーセ五書に加え、預言書やその他の文書も受け入れる中で、復活の信仰に導かれていました。
イエス様も預言書を多く引用されていましたから、サドカイ派から見れば、復活についてはイエス様もパリサイ派と同様でしたので、ここで、「復活」信仰が聖書(モーセ五書)と矛盾することを示し、イエス様を否定しようと試したのです。

彼らは、モーセ律法にある子孫存続のための規定(長男が子を残さず死去したら、次男が長男の妻をめとり、長男のために子を残すという規定、レビレート婚と言う)を持ち出し、その妻が複数の兄弟の妻になったら、復活の時だれの妻になるのかと問い、復活など持ち出したら律法が守れなくなるという理屈を言いました。
前提として、復活の世界も、今の世界と基本的に同じようなものだと考えています。
これは、復活というよりも、同じ世界に生まれ変わるという意味で、輪廻転生に近いというべきでしょう。

それに対して、イエス様の答えは、復活の世界はこの世とは根本的に異なるというものでした。
聖書も神の力も知らない者は、この世のことがらを超えることは想像することもできないとも言われました。
イエス様によれば、復活の子は、今の人間とは異なり、死ぬことがないので、子孫を残すための結婚という仕組みは必要ないので、サドカイ派の質問自体が無意味なのです。
また、復活の子は御使いのようだとも言われていますが、もちろんそれは、人が御使い(天使)に生まれ変わるということではなく、結婚がないという点で同様だということです。

そしてイエス様は、サドカイ派も信じるモーセ五書から「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という、神がモーセに語られた部分を引用し、それが復活を示していると言われます。
普通の読み方では、「わたしは、昔、アブラハムやイサクらに現れた神である」となり、神が時代を超えて存在しているという話になるでしょう。
しかし、イエス様はこの部分をギリシャ語自体に即し、「わたしはある(エゴ、エイミ)。アブラハムの神。イサクの神。ヤコブの神」と解されました。
「エゴ・エイミ」はすべての存在の根源であり、永遠でありつつ歴史を導く存在の自己啓示です。そして、それは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神でもあるというのです。
ここで、アブラハム(イサク、ヤコブ)の神がキーワードです。
イエス様によれば、それは、昔アブラハムが信じた神ということに留まらず、アブラハムと切り離すことができない関係にある神という意味なのです。(パウロ風に言えば、神と人が信仰によって結ばれている関係)。
その神が「エゴ・エイミ」であるという以上、アブラハム、イサク、ヤコブも必然的に永遠性を帯びます。
もちろん、彼らは一度死にましたが、神と結ばれた死者は永遠性を持ち、必ず復活するのです。
驚くべき解釈ですが、言われてみれば「アーメン」という他ありません。

そしてイエス様はこう締めくくられました。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
この言葉も、サドカイ派流に解釈すれば、「だから復活など言わず、この世に生きている者の神を語ればよいのだ」ということになるでしょう。
しかし、神と人との結び付きを知っているイエス様からすれば、「だから、復活はあるのだ」ということになります。この箇所は、ルカの表現の方が分かりやすいです。すなわち、「神に対しては、みなが生きている」のです。
永遠の神と結びつけられた人は「生きている」ということです。

このように、サドカイ派とイエス様では、同じ聖書のことば、同じ文章でも、意味が正反対になります。
それは、結局、神と人との結びつきを、どのようにリアルにとらえているかということから起こるのです。
そして大切なことは、その結びつきが神から出ているという点です。神がその根拠であり、人ではありません。
人が信心や修行によって神にしがみつく話ではないということです。
「エゴ・エイミ」であるお方ご自身が人を呼び出し、結びつけられるのです。

この結びつきを聖書は「祝宴」という比喩で表現しています。
「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」
神によって呼び出され、結び合わされた人たちは、アブラハムたちと一緒に食事をする(つまり、親密な交わりを持つ)というのです。
これが復活のビジョンです。今ここにいる私たちも、すでにこの世の旅を終え召された人たちも、アブラハムたちや無数の人たちと共に、キリストを囲んだ食卓にあずかるという世界です。
もちろん、食卓も比喩ですから、サドカイ派と同じように、すべてをこの世の次元で理解しようとしてはなりません。
キリストと結びつきの強さがテーマであり、しかもそれは、神と一個人の関係にとどまらず、無数の人との交わりにまで拡がっているというのがそのメッセージなのです。

この地上での礼拝は、あくまでも、天の御国の祝宴の前味、いまだ不完全な型ではあります。
しかし、それは同時に復活の希望を表明するものであり、天に召された方々も、「みな神に対しては生きている」という信仰の告白なのです。

―考察―
1. サドカイ派とパリサイ派では、どちらが理解しやすいですか?

2. レビレート婚についてどう思いますか?

3. 召天者との食卓についてどう思いますか?