礼拝メッセージ要約
2020年11月22日
マタイ福音書5章13節から16節
「山上の垂訓」H
続けて、山上の垂訓を読んでいきます。今回は、「地の塩」がテーマです。
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」と書かれています。
この文で、「あなたがたは」と述べられている部分は強調表現ですから、「他のだれでもなく、あなたこそは」というニュアンスがあります。「幸いな人」は、すでに「地の塩」だから、その塩けを失うなと言うことです。
では、「塩」は何を意味しているのでしょうか。日本には「清めの塩」という観念がありますが、聖書ではどうでしょうか。
レビ記2章13節には、「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。すべての穀物の捧げものには、塩を添えて捧げよと」書いてあります。
ここに「契約の塩」という言葉があります。塩は神とイスラエルとの契約を象徴していることが分かります。
さらに、民数記 18章19節には、神が祭司(アロンとその子孫)に永遠の分け前を与える「永遠の塩の契約」が記されています。また、U歴代誌 13章5節には、神が王(ダビデとその子孫)に王国を与える「塩の契約」とあります。
そこで、神とイスラエルとの契約について、塩が表していることを見ましょう。
まず、その永遠性です。塩が腐らない「不変」ものであることから、契約が永遠であることの「しるし」として塩は相応しいものです。
契約にも、条件次第で廃棄されるものと、無条件に永続するものがありますが、塩の契約は、神の側から結んだ契約であって、永遠に有効であることを表しています。
その契約の内容は、神がイスラエルのうちのある者(王と祭司)を選び(聖別し)、彼らに「受け継ぐべきもの」を与える、つまり相続させるということです。「聖別」と「相続」がキーワードです。
また、捧げものに「契約の塩」を添えることについては、「全焼のいけにえ」との関連が考えられます。
ささげものを焼き尽くすというのは、捧げつくされ、全て神の物となるという意味もあります。
これも、「聖別」ということです。神によって「聖別」された民が、その契約にあずかっていることの証しとして、
聖別されたものを捧げるという構図が見えます。
この「聖別」による神と人との関係は、いわゆる「きよめ」を超えて、何物にも邪魔されない、深い親密な関係でもあることが分かります。
そのような親密な者が神の子どもであり、神から約束のものを「相続」するのです。
以上の理解を土台として、福音書のことばを読んでいきます。
マタイの文では、弟子たちが地の塩であり、塩けをなくしては意味がないということだけが述べられていますが、マルコはもう少し詳しく書いてあります。(9章40〜50節)
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
まず、当然ですが、ここでの塩けは、塩化ナトリウムではなく「火」によってつけられるとあります。
ここでも火が登場します。
マルコのこの言葉は、「つまずきになるものは容赦なく取り除け。それで不自由になっても、ゲヘナ(の火)に投げ込まれるより良い」という内容に続いてあらわれます。
もちろん、ゲヘナに落ちて塩けをつけよという話ではありません。私たちは「地の塩」ですから。
しかし、「火」がさばきの象徴であることに変わりはありません。
問題は、その火によって滅ぼされてしまうのか、それともきよめられるのかということです。
もちろん、塩けがつけられるというのは、きよめられるということです。
ここで、日本の「きよめ」にもつながってきます。
ただし、それは、外から付いた穢れを祓いおとすだけのきよめではなく、「焼き尽くされ」「神のものに聖別される」きよめです。
私たちが生身の人間としてそのような火にさらされれば、焼き尽くされる他はありません。すなわち、裁かれて終わるのです。
しかし、その裁きをキリストが身代わりとなって受けてくださいました。すなわち十字架です。
それで、キリストにつながる者、すなわち弟子たちは滅びることがなく、聖別され神のものとなるのです。
これが、新約、キリストの福音という「永遠の塩の契約」です。
そして、その契約にあずかる者は神の国に住み、「地」を相続する資格が与えられるのです。
このように、旧約で述べられていた「塩」が、キリストにおいて成就したことが分かります。
ここで大切なのは、「塩けを保つ」という点です。火によって塩けが与えられるとしたら、私たちは常に火にさらされるべきだということでしょうか?
一つ目のポイントは、「自分自身のうちに塩けを保て」と言われていることです。
きよめはお祓い以上のもので、私たちの内側でなされなければなりません。
内側におられる聖霊の火によって、内側がきよめられることが必要です。
ですから、常に、内なる聖霊の働きを大切にせよということです。
また、マルコでは、「互いに和合して暮らせ」と付け加えています。
きよめが聖霊によって行われるならば、そこには和解と一致が生まれます。しかし、人間的なきよめは裁きをもたらし、分派と分裂をもたらすのです。
最後に、マタイでは、地の塩の話が、迫害の文脈で語られていることも注意が必要です。
内なる聖霊のきよめは、必ずしも平和な環境で静かに瞑想する中で起こるわけではありません。
むしろ、日常の様々な困難や、さらには迫害といった苦難と無関係ではないということも忘れてはなりません。
それら全てが働き合って、塩けは維持され、神の約束を受け継ぐこととなるのです。
―考察―
1. 日常生活の中で、塩によるきよめを意識することがありますか?
2. 塩は「死」の象徴でもあります。それと「いのち」はどう関係するでしょうか?
3. どのような「火」を体験していますか?