礼拝メッセージ要約

20201115

マタイ福音書510節から12

「山上の垂訓」G

 

続けて、山上の垂訓を読んでいきます。

今回は、義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」という箇所です。さらに以下のように続いています。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

 

ルカによる「垂訓」では、「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。」となっています。

 

通常とは逆に見える「幸い」の姿が述べられている一連の話のまとめのような箇所です。

ルカの記事の方が、より具体的です。というのは、「除名し」「はずかしめ」「名をあしざまにけなす」というのは、当時のシナゴーグ(ユダヤ会堂)で使われていた表現で、会堂から「除名」、すなわち、ユダヤ共同体から法的に排除し、「はずかしめ」、すなわち、社会的には、いわゆる国賊のように扱い、「名をけがす」、すなわち、のろわれた者とするという意味だからです。

一言でいえば、もはやユダヤ人ではなく、人として扱われない状態にされるということです。

そのような者には、天でおおきな報いがあるのだから、躍り上がって喜べ、という勧め、励ましです。

 

マタイの表現も意味は同じですが、単語は、より一般的なもので、必ずしもユダヤ人やユダヤ会堂に限定されるものではなく、異邦人も含めた迫害一般に当てはまるものです。ですから、ルカの「人の子」というユダヤ的な言葉が、「わたし」(つまりキリスト)という普遍的な表現になっています。

聖書を読む時には、まず、ユダヤ的、つまり具体的な状況を前提として読まなければなりません。

同時に、ユダヤを超えた、人類全体に当てはまる普遍的な真理を悟る必要があります。

 

今回の箇所でユダヤ的な状況とは、「人の子」(ここでは、メシア)をめぐる見解の違いです。イエス様がメシアだと告白する者と、それを認めず、彼を偽メシアであるとする主流派ユダヤ人との対立です。

主流派は非主流派(ナザレ派などとも呼ばれた)を認めないだけでなく、徹底的に排除するようになりました。

あくまでも、ユダヤ人の中での対立です。

 

日本では、キリシタン弾圧は、いわば外来の宗教を排除するという意味で弾圧されましたが、明治の国家神道時代に、それにそぐわない教派神道の諸派が徹底的に排除され、それはすさまじいものだったようです。

前者は異物を取り入れないようにするのですが、後者は、内部の腐敗をえぐりだすのです。前者はウイルスに似ており、後者は癌に似ているともいえるでしょう。

 

「主流派」が「非主流派(イエス様の弟子)」を迫害しました。理由は「人の子」はだれかという、ユダヤ教の問題でした。しかし、主流派が常に正しいとは限りませんし、非主流派だからといって正しいわけでもありません。

外部から見れば、水掛け論のいわゆる「神学論争」で、なぜそこまで対立するのかという感想も持つことでしょう。どちらが正しいのかは、それこそ「神のみぞ知る」事柄だとも言えます。

しかし、迫害という出来事によって、神学論争の性質が変わります。「人の子」の解釈から、迫害する人と迫害される人という、現実生活の問題に変わるのです。

 

迫害とは、自己を絶対視する者が、見解を異にする者を組織的に裁き排除し、ついには暴力にまで至る行為です。

そのような行為によって、その人の「人の子」の解釈が明らかになるのです。すなわち、その人が告白するメシアが、どのような存在なのかが証しされるのです。

迫害は組織的なものから、身内の小規模なものまで様々ですが、その本質は同じです。

「自己義認」「裁き」「攻撃」というパターンは、今まで何度も見てきたものです。

ただし、注意することがあります。このパターンは、確かに主流派においては「迫害」という形をとりますが、非主流派にとっても、決して無縁なものではないということです。要するにテロという形です。

 

非主流派も、「自己義認」から他者の「裁き」に進むことがあるというのが、容易に想像できることです。むしろ、少数派こそが先鋭化しやすいとも言えます。ですから、問題は主流派か非主流派かということではなく、「自己義認」から出発しているのかどうかという点になります。

迫害をする主流派は、その主張が何であれ、迫害という事実によってその誤りが明らかですが、非主流派も、たとえ何らかの迫害を受けたとしても、それだけで、その主張が正しいとされるわけではありません。

自己義認から出発した者同士の争いというものも多いのです。

 

ですから、マタイで、義のために迫害されている者が幸いだと言われている、その「義」が問題となります。

ここの「義」には定冠詞がついていないので、色々な意味にとれますが、自己義認のことでないのは明らかです。

つまり、自分の信念や主張のためではないということです。もちろん、自分の罪のためでないことは言うまでもありません。

「わたし(キリスト)のために」とあるように、自分自身のことが原因なのではなく、ただ単にキリストが原因で迫害されるということです。つまり、まったく理不尽な迫害ということです。

 

そんな理不尽なことが、なぜ幸いなのでしょうか。

それは、迫害という現象そのものが幸いなのではなく、自分自身の中に「義」がなく、ただ、キリストの義だけにより頼んでいる者が幸いだからです。

パウロが言うように、「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」

理不尽な迫害が起こる原因は、キリストが十字架につけられた原因と同じです。

「自己義認」「裁き・排除」「攻撃・暴力」と進む、人間の罪そのものからくるものです。

その罪の中にいる人々を救い出すためにキリストは来られました。

それが神の義であり、神の国、神の支配する世界です。

「天の御国はその人のものだからです。」

 

―考察―

1. 日本で少数派であることについて、どう感じますか?

2. 迫害されていると感じることはありますか?

3. その時に、どのように対応しますか?