礼拝メッセージ要約

2020118

マタイ福音書51節から9

「山上の垂訓」F

 

続けて、山上の垂訓を読んでいきます。

今回は、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」という箇所です。

キーワードは「平和」と「神の子ども」です。

 

「平和」と訳されている言葉は、へブル語で「シャローム」です。ユダヤ人の挨拶での言葉でもあります。

聖書の中の会話で、「平安あれ」と語られているものがそれです。

ですから、人々が最も大切にし、日頃望んでいるものであると言えるでしょう。

 

「シャローム」は、いろいろなニュアンスを持っている言葉です。

戦争のない状態という意味での「平和」に限らず、調和のとれた社会が繁栄している状態、心身の健康なども含んだもので、「幸福」という言葉の方が近いかもしれません。

古代イスラエルは、ソロモン王の時代に一番繁栄していました。ソロモンという名前自体、「シャローム」から来ています。

当時、イスラエルは十二部族内の対立も解消し、周辺諸国からの攻撃もなく、貿易は遠方の国々にまで及び、まさに「平和」と「繁栄」を謳歌していました。

 

ただし、そのような「シャローム」は宗教的な内容を持っています。

すなわち、イスラエルが神(ヤハヴェ)との契約を守る限り、神から与えられる祝福なのです。

(イザヤ4818節、22節参照。18節の「しあわせ」の原語はシャローム)

しかし、ソロモン以後の王国の歴史が示唆しているように、イスラエルはヤハヴェに背き、「シャローム」を失っていきました。

その絶望的とも見える状況の中で、預言者たちは、神の憐みによって「終末」に与えられる豊かなシャロームのビジョンを語り続けました。

そして、その「終末」に現れるメシアを「平和(シャローム)の君」と呼んだのです。(イザヤ95節、6節)

また、ゼカリアも、「ロバに乗ってこられる王」によって諸国にシャロームがもたらされると語りました。

 

このような背景を持つ「シャローム」を一言で表すのは難しいです。

「平和」というと、戦争や争いとの対義語、つまり社会や人間関係など外面の状態のニュアンスが強く、一方「平安」というと心の状態を表すことが多いようです。

しかし、「外面」と「内面」を分けることはできず、個人と社会を別に考えることもできません。

また精神的なものと物質的なものも繋がっています。

それらすべて面で調和がとれている状態、それがシャロームです。

さて、今回のマタイの箇所では、そのようなシャロームを「作る」者が幸いだと言っています。

神からのシャロームをただ待つのではなく、積極的に作ることが求められているのです。

これは、どういうことでしょうか。

 

豊かな内容をもつ「シャローム」について、これを端的に「和」と呼んだらどうかという意見があります。

平和や調和ではなく、あえて「和」と言うのには理由があります

「和」は言うまでもなく、聖徳太子の「十七条の憲法」冒頭の有名な言葉、「和をもって貴しとなす」と関連しています。時々、「日本人は物事に波風を立てないのを良しとする」というような意味にとられますが、もともとは役人の心得であり、要約すると、「人間は不完全なのだから、立場が異なる時に争うのではなく公正な議論が必要である。そのために各自が私心と党派心を捨てなければならない。そうすれば、ものごとはうまくいく」というようなものです。要するに、「民主主義」の理想の話です。

ですから、和といっても、単に仲良くすること自体が目的なのではなく、望ましい社会を実現するために必要なことは何かを述べているのです。

ここで「望ましい社会」が、すなわち「シャローム」の社会であることがわかります。

そのシャロームを作るために必要なのが、ひとりひとりのシャローム(和)ということになります。

 

そこで必要なのは、人間の不完全さの認識、私心(利己主義)の否定、党派主義の拒否、そのうえでなされる議論ということになります。

これは、何も日本文化の美徳というよりも、アメリカの選挙でも要求される、普遍的なことがらです。

そして、普遍的であるにもかかわらず、それが一向に実現しないということも、また普遍的な現実なのです。

実現しないのは当然です。まず人は自分自身の不完全さを認めません。もちろん自分が完ぺきだとは言いませんが、他人よりは正しいと感じています。

当然、自分の利益を優先しても、それは正当だと考えます。次に、自分の正当性を主張するために、仲間を集めたり、自分を認めてくれる集団に所属します。そして、他の集団との違いを強調し、争いに発展します。

そうなると、たとえすぐに暴力に訴えなかったとしても、言葉は建設的な議論ではなく、敵を倒すための武器と化します。こうして、シャロームは否定されてしまうのです。

 

従って、シャロームの不在は、不完全さを認めないこと、すなわち、へりくだらないこと、間違ったプライドから来ていることがわかります。

ですから、「貧しい者は幸いです」というテーマが、ここでも響いているのです。そして、その「貧しい者」は、将来、祝福され満たされるだけでなく、今日使命が与えられています。すなわち、シャロームを作る者となる使命です。

そして、そのような者は「神の子」と呼ばれる(未来形)と約束されています。この「未来形」も、これまで同様、終末の時を指しています。

その「終末」とは、もちろん、メシアの時です。そのメシアが「神の子」であり、「平和の君」であるからこそ、シャロームを作りだしてきた者が、神の子と呼ばれるようになるのです。

 

このように、「平和」を本来の「和」として理解することは役に立ちます。それは、なれ合いや事なかれ主義ではありません。また、人は皆、似た者同士なのだから仲良くできるというような、甘い考えでもありません。

シャロームとは、キリストの十字架の前でへりくだらされ、一旦「無」とされた者が、聖霊によって神のことばに導かれ、いのちの言葉を語ることにより、様々な分断を乗り越え、新しい世界を作っていくプロセス全体のことなのです。

 

―考察―

1. 平和は守るものではなく、作るものだと言われます。なぜでしょうか?

2. 身近なところで、「平和」を作る機会がありますか。あるとすれば、どのようなものでしょうか?

3. イエス様のもたらす「平和」とは、どのようなものでしょうか?