礼拝メッセージ要約

2020111

マタイ福音書51節から9

「山上の垂訓」E

 

続けて、山上の垂訓を読んでいきます。今回は、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」という箇所です。キーワードは、まず「きよさ」です。

 

「きよさ」は、ユダヤの世界で、一番たいせつなテーマです。もちろん、ユダヤに限らず、日本も含めて世界のどこでも取り上げられる価値観でしょう。

聖書では、「神は聖である」ということがすべての出発点です。そして、その神に「聖別」された民、つまり、他の民とは区別された神の民が、いかにして、きよい生活を送るのかというのがテーマとなっています。

そこで、「きよさ」と、対となる「けがれ」について考えてみましょう。

 

「きよさ」「けがれ」には大きくわけると三つの要素があります。

第一は、「外面的な」なものです。すなわち、「けがれ」は外からやってきて人を汚すので、いかに、けがれから離れ、自分の内に取り入れないようにするかがテーマとなります。

これは、日本でもお馴染みなので解りやすいです。

「お祓い」「お清め」によって、身に付きまとう「けがれ」を取り除き、自身を「きよく」保とうとすることです。

ユダヤの律法においても、そのために膨大な仕組みが備えられています。

 

道徳的なことがらで、「きよい行い」と「けがれている行い」が明記されているのはもちろん、食物や動物の種類にも、「きよいもの」と「けがれているもの」が定められています。

病やその他の身体症状にも、けがれているとされるものがあります。

その最たるものは「死」であり、聖別された祭司は、死体に触れることができません。

このように、世界にはけがれているものが満ちているので、それから離れ、もし触れてしまったならば、定められたきよめの手続きを行って、きよい状態に戻ることが必要でした。

このように、けがれるというのは、ちょうどウイルスや細菌に感染するようなもので、予防、隔離、治療が必要だと考えられているのです。

ただ、ウイルスや細菌が、単純に善玉、悪玉と割り切れないように、このような意味でのきよさ、けがれを判別し、対処するのは簡単なことではありません。

そこで、律法はますます細分化、複雑化の一途をたどることになりました。

 

第二は、「行動」のレベルでの「きよさ」「けがれ」です。

詩篇243節から6節に、「心がきよらかな者は、主から祝福を受ける」とあります。

マタイと実質的に同じ内容です。これは、どういうことでしょうか。

 

律法には、以上にのべた「きよいもの」「けがれたもの」以外にも重要なことが記されています。

それは、空間と時間そのものに関するものです。

空間において、聖別された場所というものがあり、一般人が入ることがゆるされない聖所、そして、大祭司が年に一度だけ入る至聖所がありました。

さらに、時間についても、安息日という聖別された日や、例祭と呼ばれる祭りの時期が定められています。

このような事柄には、「けがれを祓う」という要素がなく、ただ、定められたことを守るかが問題となります。

同じように、「けがれたもの」を食べないということについても、そのもの自体の「けがれ」以上に、「食べるな」という定めを守るか否かが重要なのです。

「なぜ、それが『けがれ』ているのか」などと詮索せず、素直に定めを守るものが、「心のきよい」者とみなされます。

ここでのキーワードは「従順」です。きよさやけがれが外部から来るのではなく、心がきよいかどうかが問題であり、その判別は律法に従うかどうかで明らかになるということです。

 

これは、第一の外面的な理解よりも一歩進んでいると言えるでしょう。

問題が、外部の物から内面の心に移っているからです。

しかし、ここで疑問がわきます。一つは「盲従」、つまり、何でも言われたことをすれば済むのかという問題であり、もう一つは、結局、心がきよいかどうかは、外側の行動からしか判断できないという問題です。

要するに、律法主義そのものの問題なのです。

もちろん、そのようなことは、すべて神様に任せればよいという考えもあります。

人間にできることは、律法主義、現代で言えば「法治主義」が限界だということです。

 

しかし、聖書は第三のレベルに進みます。それが、マタイをはじめ福音の語っているところです。

それは、外部の「物」でも、人の行動でもなく、心そのものを扱うのです。

人間の心そのものがどの様な状態なのかは、人間が客観的に判断できません。

しかし、イエス様が「心から出てくるものが人を汚す」と言われたように、出てくるものは判断できます。

そして、心から出てくるものが、たとえ外部の人には見えなくても、自分で気が付く時が訪れます。

すると、けがれは、たまたま表れる現象ではなく、心の本性であることがわかるのです。

いわゆる「原罪」とは、なにも大昔の人間の罪のことではなく、心がけがれているという現実から出発するということです。

体の健康に例えるならば、問題は先天的な異常であり、ウイルスを消毒したり、感染防止のルールに素直に従っても解決にはならないようなものです。つまり、儀式や律法では不十分だということです。

 

そこで神は福音を用意されました。どうしようもない生まれつきの心に代わって、新しい心を下さるというのです。それは、聖霊によるもので、生まれつきのものとは異なる質を持っています。

パウロの言葉で「新しい人」と呼ばれているものです。その新しい人は、生まれつきの人の中に誕生します。

そこで、私たちの選択は、第一のケースのように、外にある「きよい」ものと「けがれている」ものとの間ではなく、あるいは第二のケースのように、外から与えられた戒律を守るか守らないかの間でもなく、古い自分と新しい自分のどちらを選ぶのかというものなのです。

 

心のきよい者とは、新しい心を恵みによって受けたものです。その心は、自分から出たものではなく、あくまで神に所属するものです。言い換えると、私たちの内におられるキリストの心です。

私たちは、自分ではなくキリストを選ぶのです。

 

―考察―

1.  どのような「もの」や「こと」を「けがれている」と感じますか?

2.   どのような「もの」や「こと」を「きよい」と感じますか?

3.   どのようにして、自分のものではなく新しい心を選択しますか?