メッセージ要約
2020年10月25日
マタイによる福音書 5章1節から9節 「御国の福音D」
続けて、山上の垂訓を読んでいきます。
今回は、「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」という箇所です。キーワードは「あわれみ」です。
あわれみ深くあれというのは、ユダヤでの伝統であり、それ自体は珍しいことではありません。また、神様があわれみ深いお方だということも、旧約聖書のいろいろな所で語られています。
それでは、このイエス様の言葉は、どのような特徴を持っているでしょうか?
まず、山上の垂訓と対をなしているルカ福音書の所謂「平地の垂訓」を見ると、この節と同じ節はありません。
代わりに「あわれみ」に関しては、「敵を愛せ」(愛敵)の教えの後に、「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」という言葉があります。
それぞれの「あわれみ」の原語(ギリシャ語)が違いますが、用法は共通しているので、どちらも同じものを指していると考えてよいでしょう。
ルカでは、返してもらうつもりなら、悪人でも貸すだろうが、あなたがたは、返してもらうことを期待しないで貸しなさい。神は恩知らずな悪人にもあわれみ深いと述べた上で、あなたがたもあわれみ深くあれと言っています。
このことからまずわかることは、「あわれみ深い」というのは、ただ心情的に、かわいそうに感じるということよりも、具体的な行動を伴う生き方の問題だということです。
昔、「同情するなら金をくれ」というセリフが有名になったドラマがありましたが、具体的な行動が必要だということをわかりやすく表現しています。
問題は、その行動が、誰が誰に対して、どのように行われるかということです。
マタイでは、あわれみ深くありなさいという命令に続いて、そうすれば、あわれみを受けるだろう(未来形)となっています。
山上の垂訓の他の箇所にもありますが、現在の人の支配下にある状態と、将来の神の支配下にある状態が併記されている形です。いわゆる終末論的な表現です。
「あわれみを受ける」については、だれから受けるのかが書いてませんが、終末論では通常、神から受けると解釈できます。
また、ユダヤ的な表現として、「神が行う」と能動態で言うところを、主語なしに「行われる」と受動態で表現するということがあります。
ですから、マタイの文は「あわれみ深い人は、他人からもあわれみ深くされる」というよりも、神と人との関係を語っているものと考えられます。
そうすると、これは、「この世で他人にあわれみ深い行動をとった人は、天国では神からあわれみ深く扱っていただける」というように、まずは受け取れます。
表面的に見ると、「善行を積んだ人が救われる」という、福音に反するメッセージになってしまいます。
人間のあわれみが神のあわれみを受ける根拠となってしまうのです。
では、ルカの方はどうでしょうか。
そこでは、「天の父があわれみ深い」という事実があるから、人もあわれみ深くあるべきだと言っています。
神のあわれみが、人のあわれみの根拠であって、ちょうど、先程のパターンとは反対です。
こちらは、福音と一致しています。
ですから、マタイの方も、注意深く読む必要があります。
もし、「あわれみ深くあれ」というのが律法であり、それを守らなければ神のあわれみを受けられないとなると、律法主義の問題につかまります。すなわち、具体的にどのようなあわれみをどの程度行う必要があるのかという
問題です。
ルカの「あわれみ」は、敵を愛すということの結論として語られていますが、マタイで愛敵の教えの結論となっているのは、「天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」というものです。
「人はどうせ不完全なのだから、人として精いっぱい頑張ればよい」という話ではありません。神の完全さが要求されているのですから。
そして、その完全さとは、具体的には「神レベルのあわれみ」のことなのです。
これは、もはや戒律という意味での律法ではあり得ません。実行不可能な戒律など意味がないからです。
モーセは、「あなたに命じるこの命令は、難しすぎるものではない」(申命記30章11節)と言っています。
ですから、マタイやルカが伝えている「神レベルの要求」を戒律という意味での律法と捉えることはできません。
律法と訳されている言葉、「トーラー」は「道」というニュアンスの言葉です。
その道とは、「あわれみ」の道です。あわれみというよりも、慈愛と呼ぶほうがいいかもしれません。
その慈愛は、まず罪の赦しという形で現れます。そして、キリストの十字架で、その赦しがどのようなものかが示されました。
すなわち、「恩知らずな者」「反逆者」「不道徳者」その他、ありとあらゆる罪人の罪を引き受け、神の赦しをもたらす慈愛、要するに「アガぺー」の愛です。
これが、「完全さ」「神レベルのあわれみ」の内容です。
このあわれみが、すでに私たちに注がれているということ、これが福音であり、私たちはすでにその中に生きているのです。
そのような「あわれみ」を、私たちは「まねる」ことはできません。ただ、その前にひれ伏し、受け入れるだけです。
それでは、私たちが「あわれみ深い」生活をするには、どうしたらよいのでしょうか。
まず、自分には「あわれみ」がないことを認めることです。神の前に、自分は一度否定されなければなりません。
その上で、そのような自分を通して、神のあわれみが何かの形で現れることを求め、期待することです。
でしから、幸いな「あわれみ深い」人とは、神からのあわれみを受け、その人を通して、神のあわれみが伝わっていく人なのです。
一言でいうと、「福音」に生きるということです。
―考察―
1.自分はどのような時に、「あわれみ深い」あるいは「あわれみ深くない」と感じますか?
2.どのような時に、神からのあわれみを感じますか?
3.すでに神のあわれみを受けているのに、さらに「将来」あわれみを受けると言われるのはなぜでしょう?