メッセージ要約

20201018

マタイによる福音書 51節から9節 「御国の福音C」

 

続けて、「山上の垂訓」を読んでいきます。

今回は、「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」という箇所です。

ルカの福音書では、「今、飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことになるからです」とあり、

単純に「今、飢えている者が、やがて(神の国で)飽く(満ち足りる)」という表現になっています。

つまり、この世界の現状が、神の国においては逆転するという、基本的なテーマの一例として、「飢え」が取り上げられているわけです。

 

この逆転することがらの中でも、「飢え」が重要であることは言うまでもありません。食物は当然として、生存のために不可欠なものの欠乏を「飢え」ととらえることができます。

「飢え」は、もちろん自然災害から起きることもあります。神の国、すなわち神の支配は自然にも及んでいるわけですから、当然、自然界の変化も視野に入っています。神が天地の創造者である以上、当然のことです。

ただ、このような変化は、基本的に、将来を待ち望むということになります。

しかも、ただ人間がそのような希望を持っているというだけでなく、被造物全体が、(私たちと)共にうめき、共に産みの苦しみをしているのです。(ローマ819節から22節)

この、「創造主である神の被造物に対する支配」は、すべての出発点で大切なポイントです。

そして、人の支配と神の支配が、「今」と「将来」の対比として表現されることを、「終末論」的表現と呼んでいて、聖書の様々な所で語られているものです。

ルカの表現も、そのひとつと言えます。

(もっとも、現代では、人間による環境破壊によって自然災害が引き起こされる場合もありますから、次のテーマと切り離すことはできません)。

 

さて、「飢え」「欠乏」は、なにも自然災害によってのみ起こるわけではありません。

天災ではなく人災のほうが、日常的な問題です。

「飢え」の代表である食料問題も、食料そのものの欠如ではなく、配分の不公正によるものであったり、戦争、内戦などの社会的混乱によるものが主たる原因となっています。

そこで問題となるのが、「欠乏」という状態そのもの以上に、欠乏をもたらす「不正」です。

マタイが言う「義」とは「正しいこと」ということですから、「飢え渇いている者」は物質的な充足と共に、「正義」を求めていることになります。

そこが自然災害との違いです。例えば、地震は被害者を選んで起きるわけではありませんが、地震に関連して、ある人たちが大量の買い占めをしたために、他の人々が欠乏してしまうというようなケースです。

自然災害に限らず、いやむしろそれ以上に、この世は、「正義はどこにいってしまったのか!」という叫びで満ち溢れています。これは、旧約の時代から、聖書の中でも一貫して現れることがらです。

ここから、社会活動、慈善活動というものも生まれてきます。

不公正を正すことは、もちろん神の喜ばれることだからです。

 

このような一般的な意味での「正義」への渇望は、普遍的なことであり、神が「創造主」であるだけでなく、「義」(正しい)神である以上、当然満たされるべきものであり、それが神の支配というものです。

ただし、ここからが一番重要な問題です。

一般的に人が正義を求めるのは、世の中の不正が許せなかったり、自分が不当に扱われていると感じる場合です。

その時、「自分は正しい」という前提で他人の不正が正されることを求めているわけです。

しかし、「人の振り見て我が振り直せ」という格言があるように、真に不正を正したいなら、まず自分の不正を問題にしなければなりません。

これも普遍的なことですが、ユダヤ的に言うと、「自分の義を求める」となります。簡単に言えば、「いい人になりたい」ということです。

(もちろん、世の中には、いかに大きな不正を働くかを追求する人もいるかもしれませんが)。

マタイ福音書での「義に飢え渇いている者」というのも、そういう人たちでしょう。

山上の垂訓の中で、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、天の御国に入れない」という言葉があるように、神の前での正しいあり方が、ここでの義の意味だと考えられます。

そして、続いて、パリサイ人にまさる義の姿について、さまざまな事例が語られています。

 

しかし、ここで問題があります。もし山上の垂訓のこの箇所だけを読むと、キリスト者は、パリサイ人の義以上に厳しい戒律を守らなければ神の国に入れないというように取れます。

言い換えると、モーセの律法よりも厳しいキリストの律法がもたらされ、それを守るべしという、新しい律法主義の話になってしまいます。

中には、この厳しい律法も、聖霊の助けがあれば守れるし、その守れる人だけが真のクリスチャンであり、救われるのだと言う人もいます。

しかし、それでは新約全体のメッセージを損なうことになってしまいます。

パウロの言う「律法の終わり」のメッセージと違うことはもちろん、マタイ自身が記録しているイエス様の姿、そして「貧しいものは幸いです」という神による大逆転の業とも一致しません。

 

ですから、山上の垂訓自体にある言葉、「神の国と神の義を第一に求めよ」を、聖書全体から理解する必要があります。すなわち、「神の義」を「神の前での人間の義(正しさ)」を超えて、文字通り「神の義」、神の正しさと理解することです。そして、その「神の義」は、ただ恵みによって与えられるというのが福音です。

神の国とは、神の支配ですから、これは必然のことなのです。

そして、神の正しさとは、人間の不正をキリストにおいてすべて引き受け、私たちを義としてくださるということです。

 

マタイ福音書は主にユダヤ人に向かって書かれているために、モーセの律法そのものを否定しません。

否定したら、ユダヤ民族そのものの存在も否定することになるからです。

それで、モーセの律法(旧約聖書の律法)と、より厳しく内面化された“新約聖書の律法”の比較をしているように見えるのです。特に山上の垂訓を、そこだけ読むとその可能性が出てきます。

しかし、マタイによる福音書は、あくまで「福音」の書であるということを忘れてはなりません。

山上の垂訓で描かれている世界は、神の国、すなわち神の支配が行われている世界であり、神の支配の「結果」です。私たちが神の国に入るための手段として身に着けるべき資格ではありません。

このことを忘れず、人間の義に優る神の義を求めていきましょう。

 

<考察>

1. どんな時に義に飢え渇きますか?

2. 義に「満ち足りる」とは、どういうことでしょうか?

3. 具体的には、どのようにして義を求めますか?