メッセージ要約
2020年10月11日
マタイによる福音書 5章1節から9節 「御国の福音B」
「御国の福音」とは「神の支配が近づいている」というメッセージです。
引き続き、一般に「山上の垂訓」と呼ばれている個所から、このメッセージを学んでいきましょう。
今回は、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」という箇所です。
まず「柔和」という言葉に注目しましょう。
この言葉はマタイ福音書では3回使われています。
ここの他に、11章29節「わたしは心優しく(柔和と同じ語)、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と、21章6節で、ろばの子に乗ってエルサレムに入場されるイエス様が「柔和」と描写されている個所です。
どちらもイエス様の品性を表しています。
さて「柔和」と訳されている言葉ですが、なかなか深い意味があります。
マタイのこの箇所は、詩篇37篇11節の引用です。ところが新改訳聖書で詩篇を見ると、貧しい人が地を受け継ぐとなっています。
これは、ギリシャ語版旧約聖書(七十人訳)で、「貧しい」にあたるへブル語がギリシャ語で「柔和」に相当する語に訳されており、マタイは七十人訳を引用しているからです。
これは、もともとのヘブル語は、「頭を押さえつけられ、虐げられる」という意味と、「へりくだり謙虚になる」という、両方の意味を持っていることから来ています。これは、どういうことでしょうか。
「頭を押さえつけられる」とは、権力者や裕福な者の力の前で押さえつけられている状態のことです。
ただし、ただ押さえつけられているだけでなく、その状態でじっと持ちこたえているという含みがあります。
つまり、権力者や裕福な者との「力関係」だけを見ると「弱い」者とみなされますが、そのような状態で耐えられるという意味では「強い」のです。
ただ、その「強さ」をどのように使うかということが問題です。
持てる力を余すところなく発揮しようとするのか、押さえつけられたら条件反射的に立ち向かうのか、様々な使い方がありますが、この「柔和」というのは、その力を抑制的に、十分コントロールして使うことができるということです。
しかも、そのコントロールは、倍返しするために力を蓄えるという類のコントロールではありません。
自分が権力者、富裕層になって、今度は見返してやるというのではないのです。
インドでガンジーが指導したイギリスへの非暴力抵抗などが参考になるかもしれません。
ですから、そのような民は、この世の人の力よりも天来の力に頼っているので、自分自身を誇ることがありません。「へりくだっている」というのはそういう意味です。
優しいとか穏やかという生まれつきの性格の事というより、生き方の問題です。
それも、自分で選択したというより、神に導かれて歩む道のことです。
それでは、そのような柔和な者が「地を受け継ぐ」とは、どういうことでしょうか。
「受け継ぐ」というのは、「相続する」という意味です。また、この「地」とは「約束の地」(カナンの地。現在のイスラエルを中心とした一帯)を元来は指していました。
確かに、旧約の歴史は、「約束の地」に入ったり、そこから追い出されたり、あるいは、そこに居ながらも外国に支配されることの繰り返しです。
ただ、そのような歴史の中で、「地の相続」を「終末的」に理解する流れが生まれました。
すなわち、神の民を抑圧している諸国の民が裁かれ、新しい時代が始まるという、天地の一新のような捉え方です。それは、ある地上の領土を保有するということに限定されません。
その意味で、「天の御国」を相続することと「地」を相続することは、別のことではありません。
実質的には、神の支配する「新天地」を相続すると言えるでしょう。
天というのは、例えば、どこを自分の領土にするというような、政治的な話に収束しないということです。
地というのは、例えば、死んで天国に行くというような、宗教的な話に終わらないということです。
神の支配は、あまねく全世界に満ちていて、あらゆる歴史も貫いているからです。
そのような神の支配が実現している世界、言い換えれば、神の意志が天においてなされているごとく、地においてもなされている世界、そのような「地」を相続すると言われているのです。
何かを所有することを、わざわざ「相続」と呼ぶのは意味があります。
一つめは、自分の努力で勝ちとったものではないということです。それは、あくまでも「いただきもの」です。
二つめは、確実なものであるということです。プレゼントは、もらえる保証はありませんが、相続は確かです。
三つ目は、時期が決まっているということです。自分から相続の時期を決めることはできません。
四つ目は、全面的ということです。相続するのは親の持てるもの全てです。
このような形で、「柔和な者」は神の約束を相続するのです。
柔和な者、へりくだっている者にとって、一つめのことは大前提となります。
自分の力で神の祝福を勝ち取るとか、自分は神の祝福にふさわしいなどと思う人は、柔和な者ではありません。
柔和な者は、祝福の根拠を自分ではなく神においていますから、相続は確かなものです。自分ではなく神の約束に基づくからです。
また、それは「約束」なので、そこには当然「待ち望む」という要素があります。
苦難に満ちたこの世にあって、「押さえつけられても耐え忍んでいる」者なのです。
最後に「全面的」という点が重要です。何を相続したら「全面的」に相続したことになるのかという問題です。
地上の領土だけでは全面的ではありません。全宇宙が神のものなのですから。
いわゆる天国も全面的ではありません。場所は完璧でも、そこに住むべき自分自身が問題となるからです。
ですから、御国を相続するということは、神の子となるということと同じであり、神の子であるという実質そのものが重要なのです。そして、それを保証するのが「約束の御霊」です。
聖霊が与えられるということが、御国を相続するということなのです。
もちろん、御霊を受けて神の子とされても、私たちが神になるわけではありません。地上の相続とは違います。
神は死なないのですから。反対に、私たちはますますへりくだり、「柔和な者」となるのです。
<考察>
1.
当時、ローマに反乱しようとする勢力が増していました。その中で「柔和」の言葉はどう響いたでしょう?
2.
ガンジーはキリスト教徒ではありませんが、「山上の垂訓」を熟読していました。どう思いますか?
3. 一国の主となることと、聖霊を受けることと、どちらが大きいと感じますか?