メッセージ要約
2020年10月4日
マタイによる福音書 5章1節から9節 「御国の福音A」
「御国の福音」とは「神の支配が近づいている」というメッセージです。
前回に続き、一般に「山上の垂訓」と呼ばれている個所から、このメッセージを学んでいきましょう。
冒頭の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」という言葉に続いて、
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」とあります。
単純な言葉です。世間でも、悲しんでいる人がいたら慰めてあげようと思うのが普通です。
(もっとも実際に慰められるかは別ですが。)
私たちが悲しんでいる時に、人にもまして神様が慰めてくださるというのは本当で、ありがたいことです。
あるいは、神様が特定の人を用いて慰めてくださるということもあるでしょう。
ただ、「山上の垂訓」は、もう少し掘り下げて読む必要があります。
「悲しみ」にはいろいろな種類があり、その原因も様々です。
もちろん、万民に共通な悲しみというものもありますが、個人によって違う場合もあります。
阪神が負けて悲しいとか、給料が減って悲しいとか、友人から冷たくされて悲しいとかいろいろあるでしょう。
パウロはこう言っています。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(第2コリント7章10節)。
(これはクリスチャンに向けての言葉です。クリスチャンになるための悔い改めではありません。)
世には実に多くの悲しみがあります。放置していれば、文字通り「死」に至るほどの悲しみもあります。そこまでいかなくても、心身に異常をきたしたり、社会的な孤立を招く場合もあります。
その様な時に、神が直接、あるいは人を通して間接的に慰めてくださり、とりあえず悲しみが消えたり、薄れたりすることがあります。
それは素晴らしいことではありますが、それだけなら、マイナスがゼロに戻っただけだとも言えます。
一方、「神のみこころに添った悲しみ」というものがあります。それは、「救いにいたる悔い改めを」を生じさせる類の悲しみです。
パウロが第2コリントのこの箇所で語っているのは、コリントの教会の中で起こった問題についての対処に関することですが、この場合に限らず、「悲しみ」⇒「悔い改め(すなわち方向転換)」⇒「救い(慰め)」という流れは、世の支配ではなく、神の支配下に留まるときに起こることなのです。
このことについて、もう少し詳しく見ていきましょう。
まず、ここの「悲しみ」はマタイの「悲しみ」とは別の原語ですが、実質的に同じように考えてよいでしょう。
「世の悲しみ」とは、この世に属している悲しみです。
ては、「神のみこころにかなう悲しみ」とは何でしょうか。原文には「みこころ」という単語はありません。
「神から下る」、「神による」、「神に面する」など、多様に訳せる表現です。
いずれにしても、「悔いのない悔い改め」に導く悲しみに導くものが、そのような悲しみだと言うのです。
「悔いのない悔い改め」とは妙な表現です。「悔いのない」という言葉は、普通の「後悔しない」という意味です。
「悔い改め」とは、今まで何度も出てきたように、「思いの転換」です。
前者は感情であり、後者は世界観と言えるでしょう。
ものの考え方が転換されて、後悔しない生き方ができるようになるということです。
では、その悲しみは具体的にどのようなものなのでしょうか。
ヤコブの手紙4章9節に、「あなたがたは苦しみなさい。悲しみなさい」と物騒なことが書いてあります。
しかし続けて10節を見ると、それはつまり、「主の御前でへりくだりなさい」ということだとわかります。
「そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」
普通、悲しめと言われて悲しむわけではありません。しかし、へりくだるというのは、自分からすることです。
もっとも人間は基本的に傲慢なので、人の前では腰が低くても、神の前ではそうではありません。
形だけならひれ伏すこともできますが、その瞬間、神の前で謙遜を演じている自分自身を見出すという、悲しい性を持っているのが、私たち人間なのです。
それ自体がすでに悲しいことですが、ここに「悲しみ」の役割があります。
私たちは残念ながら、「楽しんで」へりくだることはできないのです。
しかし、悲しみの中で「へりくだされる」機会がやってきます。
その時に、私たちは神が意地悪をしているように感じるかもしれません。楽しみながら、へりくだれるようにしてくれれば良いのにと思うかもしれません。
それは人間の弱さでもありますが、それ以上に頑固なプライドでもあるのです。
このことに気づくことが「へりくだり」の第一歩であり、実はそれが「悔い改め」の第一歩でもあります。
神は私たちが悲しむこと自体を喜んでおられるのではありません。
ただ、悔い改めが是非必要だからこそ、悲しみを許容されていると考えるべきです。
その「悔い改め」を通して、「神があなたがたを高くしてくださいます」。
ただし、この「悔い改め」は後悔ではなく「世界観の転換」であることを忘れてはなりません。
それは、どのような転換でしょうか。
この世では、例えば、会社で大きな失敗をした人が、それを悔い、深く謝罪することで許され、再度チャンスを与えられた結果、大きな業績をあげるというケースがあります。
しかし、そこには「世界観の転換」はありません。ただ、失敗の経験を活かし、成功したというだけの話です。
転換というのは、「自分が成功する」ことから「神が自分を高くしてくださる」に転換するということです。
主語が「自分」から「神」に転換するのです。
ですから、仮に世間的に見て立派な業績をあげたとしても、その主体は神であって、ただ自分はその手段であることを忘れてはなりません。
また、「自分は神に用いられた」と言っても、もし主語が自分であるとしたら、神を持ち出しても同じです。
「神はわたしを(なぜかは分からないが、あくまで神の恵みとして)用いた」ということでなければなりません。
言い換えれば、一時へりくだれば、あとで偉くなれるということでは断じてなく、「へりくだり」、「悔い改め」、「高くされる」ことは、ひとつの出来事なのです。
「悲しむ者は(今すでに)幸いです。その人は慰められるからです。」
<考察>
@ 自分にとって、どのようなことが悲しいでしょう?
A どのような時に、へりくだりますか?
B 慰められると、どうなりますか?