メッセージ要約

2020年9月27

マタイによる福音書 51節から9節 「御国の福音@」

 

イエス様は宣教を開始された時、ガリラヤ全土の会堂で「御国の福音」を宣べ伝え、民衆を癒されました。

「神の支配が近づいている」というメッセージを、癒しと解放という、目に見える形で表しておられるイエス様は山で座り人々に向かって語られました。

それが一般に「山上の垂訓」と呼ばれている一連の言葉です。

 

因みに「山」での語りはモーセが律法を授かった出来事を連想させます。

ただし、モーセの場合は険しい山でしたが、イエス様の場合はガリラヤの緩やかな丘陵でしょうから、雰囲気は異なります。

また、弟子たちがみもとに来たとありますが、「垂訓」が終わると群衆が驚いたとありますから、弟子も含めた群衆皆に語られたと考えられます。

その群衆とは、もちろんイエス様の教えを聞き癒しの業を体験した人々のことです。

さらに、イエス様が座って教えたというのは、当時のラビ(教師)のスタイルです。

それでは、イエス様の言葉に耳を傾けましょう。

 

冒頭に「幸い」なのはどのような人々なのかについて語られています。俗にいう「幸せ者」の条件です。

世間には「幸福度ランキング」なるものがあり、国別や国内の県別に順位がつけられています。

自分が思う最高の生活を10点、最低を0点としたばあい、現状は何点と思うかという類の「主観」を尋ねるアンケートの結果と、その地域の経済指標や機会の平等、報道の自由等の指標を加味して評価するそうです。

日本は豊かなわりにはランキングが低いと話題になりますが、主観はあくまで主観であり、理想が高ければ現状評価は厳しくなりますし、指標も何を選ぶかによって結果はいくらでも変わりますから、あまり深刻に受け止める必要はないのかもしれません。

 

このような「この世」の幸福観に対して、イエス様の語る幸福とは何でしょうか。

第一声はこうです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。

キーワードは「貧しい者」です。これを理解するためには旧約の伝統を知る必要があります。

イスラエルには本来「貧しい者」(普通の意味で)は存在しないはずでした。そこは神から譲り受けた約束の地であり、公義が行われるべき国だったからです。

しかし現実には力を持つ人が他の人を虐げるということが起きました。

この現実を預言者たちはしばしば糾弾しました。例えばイザヤは「なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか(315節)と言っています。

ここで「貧しい者」が「わたしの民(神の民)」と同義語として使われています。

 

やがてイスラエルの民全体が捕囚の身となると、民全体が「貧しい者」の立場になってしまいました。

その中で、民が異国の支配から解放される望みを預言者たちは語りました。イザヤ書611節から3節では、

「貧しい者」への良い知らせ、囚われ人の解放などの希望が告げられています。

また詩篇の作者は、悪者から苦しめられていながら、神を信頼し神に救いを求めている敬虔な人を「貧しい者」と呼んでいます(詩篇9:912等)。

「貧しい者」とはこのような背景を持つ言葉であり、経済的な困窮を含みながらも、それだけを意味しているわけではなりません。

 

マタイでは「心の貧しい者」とありますが直訳では「霊において貧しい者」です。

「霊において」とは神との関係においてということです。

神に飢え渇き、ひたすら神によりすがるしかない者ということですから、旧約の伝統を引き継いだ表現だと言えるでしょう。(物はたくさん持っているが心が貧しく人間性に問題がある人という意味ではありません)。

 

確かに引き継いではいますが、まったく同じかというとそうではありません。

旧約では、虐げられていても神にすがる敬虔な人ということでしたが、この「敬虔」という言葉が曲者です。

「敬虔な者は救われる」ということは、「不敬虔な者は救われない」といういうことと同じです。

もしそうだとすると、二つの問題が出てきます。

一つは祈りが答えられず救われなかった場合です。原因はその人が敬虔でなかったということになってしまうでしょう。

その場合、自分を卑下するか、他人を裁くか、あるいはもっと敬虔になるように励むかという方向に進むでしょう。これを「律法主義」と言います。パリサイ派や律法学者等の宗教家の立場です。

もう一つは祈りが答えられた場合です。これも律法主義の世界ですが、さらに危険な世界に入ってしまいます。

なにしろ、祈りが答えられたのは自分が敬虔だからだというのですから。

これを神の名を使った自己義認と呼び、それが個人から集団にまで広がると「カルト」となるのです。

どちらの場合も「貧しい者」とは正反対のものとなってしまいます。

 

イエス様の「貧しい者」はそれとは違い、正真正銘「貧しい者」を意味しています。

そこに「敬虔」という言葉は入りません。

イエス様のもとに集まる人は、罪人(律法を守らない人)、取税人(ローマに取り入って同胞から金をゆすり取る人)、売春婦、その他もろもろの人たちでした。

しかし、それさえも条件ではなく、中には宗教家やローマの兵士、さらにはギリシャ人までおり、要するに無差別でした。イエス様が病人を癒された時、その病人がどんな人であるかは関係なかったのです。

これは、現代の医療の理念にも通じます。

 

ただし、イエス様の場合は「博愛の精神」以上に問題だったのは、人々の霊的な状態でした。

すなわち、人と神との関係がどうなのかということであり、イエス様にしてみれば、敬虔な宗教家も、どうしようもない罪人も「霊において貧しい」状態にあることに変わりはなかったのです。

要するに、人は皆、不敬虔な罪人だということです。

その「罪人」に神の支配が近づいている、それは人の側の条件によらず、ただ神の恵みとして臨んでいるというのが福音です。

後は、自分がその事実を認めるかどうかです。

パウロの言葉。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」。

 

<考察>

@     山上でイエス様のもとに集まった群衆は何を期待していたのでしょう?

A     自分の「幸福観」を検討してみましょう。

B     ルカ福音書の類似記事(620節以下)と比較してみましょう。