メッセージ要約

2020年9月20

マタイによる福音書 4章12節から25節 「ヨハネからイエスへ」

 

イエス様は荒野で試みを受けられた後、ガリラヤで宣教を開始されました。

バプテスマのヨハネが捕えられたタイミングだと記されています。

今回は宣教の主役がヨハネからイエス様へ移っていくことの意味について学んでいきましょう。

 

「継承と改革」、今回の新内閣を始め、様々な機会に唱えられる標語です。

良いものは継承し、変えるべきものは断固として変えている、これが歴史を作るために必要なものであることは間違いありません。

しかし、その中身を見極めることは簡単ではないことも事実です。

ヨハネとイエス様との関係もこの観点から理解する必要があります。

まず「継承」について見てみましょう。

 

ヨハネからイエス様に継承されたものは二つあります。ひとつは「人」、もう一つは「言葉」です。

まず「人」についてです。

マタイ福音書の記事からは、ペテロたちはヨハネが捕えられた後、突然イエス様の弟子になったような印象を受けますが、ヨハネ福音書など他の文書を見ると、実際の経緯はもっと複雑で、ヨハネとイエス様の活動がだぶっていた時期に、ヨハネの弟子のうち何人かがイエス様の方に移っていたことが分かります。

いぜれにしても、イエス様の弟子の一部はヨハネから引き継いだものです。

これにはどんな意味があるのでしょうか。

 

一つは、ヨハネの弟子がヨハネの言葉を証言しているということです。

すなわち、ヨハネがイエス様について語ったこと、「聖霊のバプテスマを授けるお方」とか「世の罪を取り除く神の小羊」のような言葉を保持し、新しくイエス様のもとに集まる人々に伝える橋渡しの役をしたということです。

これにはもちろん神学的な意味もあります。

ヨハネは旧約時代の総括として現れたということから、これらの弟子たちの証言はいわば旧約のキリスト預言という意味があります。

要するに、イエス様は旧約のキリストに関することがらの全体を引き継いだということです。

 

イエス様が引き継いだのは弟子たちだけではありません。

ヨハネに厳しく糾弾されていた宗教家や権力者たちとの対立構造も、残念ながら継承しなければなりませんでした。ヨハネを捕えた勢力は、やがてイエス様をも捕えることになるのです・

もっとも、これも旧約時代すでに神の意志を告げる預言者たちが経験してきた苦難を継承したものと言えるでしょう。

 

イエス様が継承した「言葉」はこれです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。

言葉自体はヨハネのものとまったく同じです。これだけみると、イエス様はヨハネの単なる後継者に見えます。

しかし、この言葉で語られていることは自分の主張ではなく、単純に客観的な事実なので、あえて変える必要はありませんでした。

天の御国が近づいている、つまり神ご自身が支配する状況が迫っているという事態は誰が証言するかに関わらず現実であり、そのために私たちは「悔い改め」、つまり世界観の転換が必要だということも変わらないのです。

 

ただし、言葉が同じだからといって、そのメッセージの意味が同じとは限りません。

「天の御国」(神の国)は実際どのような「支配」なのか、それによって「悔い改め」の中身も違ってきます。

ヨハネの強調する神の支配とは、不正に満ちたこの世界に神の正義が到来するというものです。

問題は「正義」の中身です。それは単に悪者を罰するということでしょうか。

もちろん悪は放置されるべきではありませんが、イエス様のもたらす神の支配はそれ以上のものです。

イエス様はその違いを言葉ではなく二つの行動で示されます。

 

一つは、ある人たちを弟子として呼び集め、彼らを「人間をとる漁師にする」ことです。

もちろんこれは漁師たちに語ったケースですから、もし弟子が農民なら「人間を刈りとる農夫」、大工なら「人間を建てる大工」のように語られたでしょう。

要は、一般に人々が物や自然界に対して行っているようなことを人間に対して行い、新しい世界を作っていくような人々、すなわちイエス様の弟子たちを起こすという形で神が働かれるということです。

いわば、新しい種類の人間が連鎖的に起こされていく世界、それが神の国なのです。

 

もう一つは、大勢の群衆に対して癒しを行うことです。

神の支配が「癒し」という形で目に見えるようになったのです。

悪者を罰して、社会に公正と秩序をもたらす以前に、そもそも多くの人々が病気や痛みに苦しみ、悪霊に悩まされているという状況そのものが悪なのです。

ですから、神の支配とは、そのような弱者に対する大きな憐みがその中心にあります。

いわば「神も仏もあるものか」と叫ぶ哀れな人類に、「わたしはいる。恐れるな」との声が届く、そして声だけでなく手を差し伸べてくださる、それが「天の御国は近づいた」ということなのです。

 

このようにしてヨハネから継承した言葉は、その中身が改革されました。いや、改革というよりも、その本来の意味が明らかになったというべきかもしれません。

そして、このメッセージに対して反応し、自分の思いを転換することを「悔い改め」と呼びます。

神は人(弟子)を通して人々を建て上げる、これが神の国、支配の実際であるならば、悔い改めとは、この神の働きに招かれ、参加することを意味します。

これは、この世の働き、すなわち神を抜きにして人が人を支配し、建て上げるよりは破壊していく働きとは正反対のものです。

ですから、この世の働きから神の働きに転換することが求められているのです。

 

ただし、マタイ4章のこの段階は、まだ宣教の「始め」であることを忘れてはなりません。

この働きがそのまま順調に拡大し、世界が神の国になるというわけにはいかないのです。

この世の闇はあまりにも深く、真の「悔い改め」が起こるためには、十字架と復活、そして聖霊の訪れを待たなければなりませんでした。

 

<考察>

@     イエス様の宣教はなぜ「異邦人の地」と呼ばれるガリラヤ地方で始まったのでしょう?

A     ヨハネの弟子たちは、なぜイエス様についていったのでしょう?

B     イエス様はどのような人に声をかけるのでしょう?