メッセージ要約
2020年9月13日
マタイによる福音書 4章1節から11節 「荒野での試みB」
イエス様が荒野で受けられた試みの出来事から、神の子の在り方について続けて学んでいきます。
今回は第3の試みについてです。サタンの言い分はこうです。
「全世界の国々は自分のものなのだ。私にひれ伏せばそれを全部やろう。」
これはいったいどういうテストなのでしょうか。
まずは一般的な話です。
世の人々は権力を求めます。そして、しばしばそれを手に入れるためには手段を選びません。
場合によっては、いわゆる「悪魔に魂を売る」ということもあるでしょう。
もちろん、悪魔の力によって権力を得たとしても、その栄華は一時のもので、やがてそれは脆くも崩れ、魂を売った人自身も破滅してしまいます。これは歴史が証明していることです。
そのような道ではなく、神の道を選ぶべきだというのは、もちろん最も重要なことであり、私たち一人ひとりが肝に銘じておかなければなりません。
ただ、イエス様の場合、もう少し深掘りが必要です。
まず、この試練を理解するために、サタンの言葉についての二つの解釈を見てみましょう。
ひとつは、サタンの言うことは嘘だという解釈です。
つまり、全世界は神のものなのだから、サタンのものだというのは嘘だということです。
もうひとつは、サタンの言うとおり、現時点で全世界はサタンの支配下にあるから、キリストはそれを何かの方法で取り戻さなければならなかったという解釈です。どちらも説得力がありそうです。
前者の解釈は明快です。神は万物の主であるというのはすべての大前提であり(というより、そもそも万物の主を神と呼んでいる)、サタンが嘘つきだということは明らかだというものです。
もっともな解釈ですが、それならイエス様がなぜサタンに対して単純に「おまえは全世界を持ってなどいない」と言われなかったのかという反論があります。
さらに言えば、神が善であり、すべてを支配しているのなら、なぜ世界は悪に満ちているのかという疑問が出てきます。これが「神義論」(しんぎろん)すなわち、神が善ならなぜ世界には悪があるのかという問題です。
後者の解釈は、本来万物は神の支配下にあるが、人が堕落して以来、つまり人が悪魔の誘惑に負けて以来、人は悪魔の支配下に入ってしまったというものです。
だから、世の権力はたとえ良く見えるものであっても、実質的に悪魔に支配されてしまうという、ある意味かなり悲観的(あるいは現実的)な見方です。
これは「神義論」の中のひとつの議論で、悪を神から切り離して人間の罪とサタンの働きとして見るものです。
もちろんそう見たからといって、そのサタンの存在を神が許可しているとしたら、結局「神義論」の決着はつかないのですが。
神学的議論はおいておくとして、もし現状で世界の権力をサタンが握っているとしたら、キリストはそれを取り戻すのが使命ですが、問題はその手段は何かということになります。
結論から言えば、サタンにひれ伏すという安易で間違った方法をとるのか、それとも十字架という苦難の道を選ぶのかという選択を前に、イエス様は「神を選ぶ」、つまり十字架の道を選ばれたということになります。
前者の解釈でも、サタンとは関わりなく、キリストご自身は、十字架の道によって神の支配を現されたのですから、本質的にはどちらも変わりはないと言えるでしょう。
ただし、前者の場合、サタンの主要な働きは嘘であり、私たちに求められているのは嘘に騙されずに、十字架の贖罪に信頼することが中心になります。これは「贖罪のキリスト」中心の信仰形態です。
それに対して、後者の場合は、サタンは嘘だけでなく、より現実的な力をもっており、キリストはサタンの力を打ち破ったのですから、私たちもキリストの力によって、サタンに打ち勝たなければなりません。これは「勝利のキリスト」中心の信仰形態です。
前者はどちらかと言えば、静的で平安志向、後者は動的で勝利志向です。
もちろんこれはどちらが良いとか正しいということではなく、ものごとには両面があるということです。
ただ、そのどちらかに傾いてしまい、さらには他の方を否定してしまうのは危険です。
私たちは、まず前者の態度が必要です。つまり、神は万物の主であって善であり、しかも私たちの髪の毛1本までご存じである、そのようなお方であるということが出発点です。
決して、善の神と悪の神(悪魔)が対等に渡り合っているのではないということです。
そしてその神はその一方的な恵みとしてキリストを十字架に送られました。
その十字架に私たちが背負っていたすべての債務(すなわち罪)をはりつけ、処分されたのです。
私たちはそのような「主」を選びました。いや、主に選ばれたのです。
同時に、この世界は様々な形で権力争いが行われていることも事実です。
それは何も政治やビジネスの世界に限られたことではなく、家庭や地域社会など、人間関係が存在するところはどこにでもあることです。
権力とは要するに他人をコントロールする力です。人を物や言葉、ルールや愛情などによって縛り支配しようとする欲情は人の心奥底に巣くっていて、それを実現する能力と機会があると現実化します。
全世界は支配できなくても、例えば子供の人生全体を支配しようとする親はいます。
従業員のプライベートまで影響下に置こうとする会社もあります。
初めは些細なことに見えながら、気が付かないうちに泥沼にはまっていく危険がある、サタンの誘惑とはそのようなものです。
他人を支配するとは、自分がその人の「主」になるということです。社会には当然、上下関係はありますが、それは絶対的なものではありません。つまり、人は他人の絶対的な主になることは許されません。
ただ神だけが主だとはそういう意味であり、自分自身を筆頭に、どんな人も絶対化(つまり神化)してはならないのです。
これは単純でありながら最も人間にとって難しいことであり、まさに戦いの最前線があるということを忘れてはなりません。
<考察>
@ サタンが「世界の国々は自分のものだ」と主張する彼なりの根拠は何でしょう?
A 自分の欲しいものをくれるという人や団体にひれ伏すという誘惑を感じることはありますか?
B 目の前の誘惑する物や人と、サタンそのものをどのように区別しますか?