メッセージ要約

2020年9月6日

マタイによる福音書 4章1節から11節 「荒野での試みA」

 

イエス様がバプテスマに続いて、荒野で受けられた試みの出来事から、神の子の在り方について続けて学んでいきます。

今回は第2に試みについてです。サタンの言い分はこうです。

「神の子なら、神殿の頂きから飛び降りてみなさい。み使いがささえて守ってくれると聖書に書いてあるではないか。」

前回取り上げた第一の誘惑は、石をパンに変えるという神の子の力を不当に行使する誘惑でした。

この誘惑にたいして、イエス様はイスラエルが荒野で学ぶべきであったマナの出来事との関連から、はっきりと拒絶を表明されたのでした。

それに対して今回の誘惑は、公衆の面前で神の子であることを見せよというものです。

 

サタンの要求が神殿の頂きから飛び降りて見よということです。

メシア待望の熱が高まっていた当時、大勢の自称メシアが現れましたが、例えば魔術師シモンという人などは、空中を飛べると言って高いところから飛び降り死んだという伝説も残っているようです。

イエス様に対しても、宗教家たちは繰り返し「しるしを見せよ」と詰め寄りました。

もちろん、メシアを自称するだけなら、だれでもできるわけですから、本物であることを証明せよというのはある意味当然です。

しかし、その証明の仕方が問題です。飛び降りても大丈夫、いわゆる空中浮遊ができるということが、はたしてメシアの証明になるのでしょうか。

 

サタンの主張はおそらくこうです。詩篇91篇に「主はみ使いに命じて守らせ、足が石に打ちあたらないようにされる」と書いてあるのだから、飛び降りても大丈夫なはずだ。しかも、そのような光景を人々が見れば、神殿にメシアが現れたことが大々的に知れ渡ることになるではないか」。

ここに二つの問題があります。

一つ目は、サタンが聖書を引用して自分の主張を正当化しようとしているという点です。

引用するのは簡単ですが、詩篇のこの箇所が神の子の証明になるのでしょうか。

 

詩篇91篇は、神を避け所としている者を神が守られるという内容です。

神に頼る者の歩みを支えらえるから、足が石に打ちあたることはない。要するに躓かないように守ってくださるということです。そこに、高いところから飛び降りるなどという話はありません。

聖書の無理な引用と言えばそれまでです。実際、しばしば聖書の部分的な引用や文脈を無視した解釈で人々が惑わされてしまいます。そのことには十分注意しなければなりません。

健全な聖書解釈は大前提ですが、大事なのは、サタンが聖書を誤用するのは勉強不足のためではないという点です。彼は「わざと」聖書を誤って引用しているのです。

 

それをご存じのイエス様は、サタンに対して詩篇91篇の正しい読み方を教えようとはされませんでした。わざと誤用しているものに対しては無駄なことだからです。

イエス様はむしろ別の聖句で答えられました。「主を試みてはならない」という言葉です。

これは、いわゆる「メリバの水」の事件、すなわち、荒野を旅するイスラエルの民が水に渇いた時、モーセに文句を言い、神は本当に共におられるのかと疑ったことに対して言われた言葉です。

飛び降りる云々とは関係ない話のように見えますが、キーワードは「試みる」という言葉です。

 

そもそもテストされているのはイエス様が「神の子」であるかどうかという点でした。

「メリバの水」では、民は「主をテスト」しました。

イエス様の場合、もちろん飛び降りて神が守ってくれるかどうかをテストするようなことをしてはいけない、という意味にとれます。

ただそれ以上に、「主を試みるな」という言葉はサタンに向けられているのであり、メリバの時のイスラエルに対してと同様に不信の反抗の中にいる者に対してのものなのです。

サタンの聖書引用は、ただ間違っていただけでなく、この不信と反抗の証しだったことが示されたのでした。

 

二つ目の問題は、「神の子」であることを大衆に「見せる」という点です。

自称メシアでないなら当然大勢の人に見てもらい認めらえるべきだというのです。

今日でいう、宣伝、コマーシャル、プロパガンダ、数の論理といった類の話です。