メッセージ要約

2020830

マタイによる福音書 4章1節から11節 「荒野での試み」

 

ヨハネからバプテスマを受けたイエス様に、神は「わたしの子」と声をかけられました。

イエス様が「神の子」であるというのは福音の中心ですが、問題は、「神の子」とはどのような存在なのかということです。今回は、イエス様がバプテスマに続いて、荒野で受けられた試みの出来事から、神の子の在り方について学んでいきます。

 

イエス様を荒野に導いたのは御霊でした。バプテスマの時に「鳩のように」下った御霊が今度はイエス様を荒野に連れていったのです。

目的はイエス様に試みを受けさせるためでした。試みるというのはテストする意味です

聖霊を持つにふさわしい者であるかテストされるということです。

商品が開発されると性能や耐久性、安全性など様々な要素がテストされ、合格してから販売されます。

もちろんイエス様と商品は違いますが、彼が正真正銘の神の子であるということ、つまり、この世の言う神の子ではなく、神の言う神の子であることがテストを通して明らかにされる必要があったのです。

 

さて、イエス様は導かれた荒野で40日間の断食をされました。言うまでもなく、これは昔、出エジプトを成し遂げたイスラエルの民が40年間荒野をさまよったことを連想させます。

律法を授かったイスラエルは、その戒めを守るかどうか荒野で試されたとあります。

今やイエス様は、神の子として公にされるにあたり、霊においてサタン(試みる者)の誘惑に立ち向かい、ご自身の真の姿を現されました。それでは、ここに記録されているサタンの誘惑の内容を見ていきましょう。

 

誘惑は三つ挙げられています。サタンはこう言いました。

第一に、「神の子なら、石がパンになるように命じなさい」

第二に、「神の子なら、神殿の頂きから飛び降りても、み使いがささえて守ってくれる」

第三に、「自分(サタン)にひれ伏すなら、全世界の国々を与えよう」

 

第一の誘惑は、神の子の力を(不当に)行使する誘惑です。

おそらく生命の危険を感じるほどの極度の空腹を覚えておられるイエス様に、サタンは石をパンに変えたらよいではないかと言うのです。

空腹の問題を解決するだけなら断食を終了すれば良いのですから、問題は石をパンに変えるかどうかということです。

第三者的に見るとこのシーンの意味について四つの可能性があります。

A イエス様は神の子なのでパンに変えることができる。それでパンに変える。

B イエス様は神の子なのでパンに変えることができる。しかしパンに変えない。

C イエス様は神の子だがパンに変えることはできない。

D イエス様は神の子ではない。

 

私たちは正解がBであることを知っていますが、いったいサタンは何を狙っていたのでしょう。

つまり、この試練の本質は何だったのでしょうか。

イエス様がパンに変えないなら、サタンはB,C,Dすべての可能性に至ります。

Dは単純です。サタンの勝利で話は終わります。この世の多くの人の考えでもあります。しかし話は終わりませんでした。

C は、サタンの前提、つまり神の子なら石をパンに変えることができるという前提が間違っているということで、この話自体が成立しなくなります。サタンの負けといえば負けですが、それでは何が試練なのかがわかりません。

もちろん、神の子とは何かの分野で非常に優れている人の呼び名にすぎないという、これもこの世の多くの人の考えには合致します。

 

CDがこの世の考えとしてはあり得ても、真剣な試練としては意味がないとすると、問題はABの選択だということになります。

つまり、石をパンに変えれば神の子の証明になるし、イエス様はそれができるのにもかかわらず、あえてそれをしない。この選択をするかどうかという点がテストだったということが分かります。

そして、与えられている能力や権利を行使しないという選択をされた、それがイエス様が「神の子」であることの証なのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

人間は、自分に与えられた能力や権利を最大限行使しようとします。同時に、他人の能力や権利を侵害しないように求められています。それが、秩序ある社会であり、人の子としてのあるべき姿です。

しかし「神の子」は違うのです。神の子の権利や能力に制限はありません。ですから、問題は実用上それをいかに制限して用いるかということになります。

ただし、それは他人の権利に対する配慮や妥協ということではなく、神のことばに基づいて行われるのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」というのがイエス様の答えです。

 

このことばは、「人は肉体のための食糧だけでなく、霊的な糧(神のことば)が必要だ」という意味で引用されます。それはその通りで大切な原則ですが、サタンとの闘いの争点はそれ以上のものです。

この聖句は、荒野を旅するイスラエルに関して、その意義を説いた申命記にある言葉です。

彼らは天から降るマナという特別な食物を食べていました。

日ごとに必要な分だけ毎日与えられ、安息日の前日には二日分与えられました。

それは、人が通常のパンではなく、マナ、すなわち神から与えられる日ごとの糧によって生かされていることを学ぶためでした。

彼らは、神に選ばれた民として、神に全面的に依存している事実を体験しなければならなかったのです。

 

イエス様は、石をパンに変える能力はあっても行使されませんでした。もしされていたら、それは神からではなく、サタンの口から出た言葉によったことになってしまったでしょう。

神のことばによれば、前回読んだイザヤの預言その他で、しもべとしてのメシアがイエス様のあるべき姿です。

しもべは奴隷であり同時に自由人です。

奴隷というのは、自分の権利を主張せず、神のことばに従うからです。

自由人というのは、神の子としての権利と力が与えられていながら、それを行使しない選択もできるからです。

イエス様は究極のしもべであり、私たちもそのしもべの世界に招かれているのです。

 

<考察>

@     権利をあえて行使しない自由を日常生活で経験することがありますか?

A     上記A,B,C,Dの他にEも考えられます。神の子ではないが、石をパンに変えることができるというケースです。具体的に、どんなことが考えられますか?