メッセージ要約
「バプテスマのヨハネA」
マタイによる福音書(Matthew)3章13節〜17節
メシア到来の前に現れ、メシアの道を整えると言われていた人、バプテスマのヨハネについて読んでいます。
ヨハネは旧約時代の総括であり、新約時代の到来を告げる存在ですが、ふたつの大きな働きを見ることができます。ひとつは、救いがユダヤ民族から全世界の民族に拡がっていくということであり、もうひとつは、神との繋がりが文字から聖霊に進んでいくということです。
そして、このことに関して、前回は「選び」という観点から学びました。
今回は、その文脈のなかで、イエス様が受けたバプテスマについて見ていきます。
イエス様がヨハネからバプテスマを受けたという出来事は、広く知られていたと同時に、弟子にとってはその意味が重要だったことでしょう。
もちろん、ヨハネからバプテスマを受けるというのは、必ずしもヨハネの弟子になる儀式にあずかるという意味ではありませんでした。
当時のバプテスマは、証人立会いのもと、流水(生ける水と呼ばれる)の中に自分で全身浸かるものだったと言われます。この場合はヨハネ立会いのもと、各々が自分の罪を告白し水に浸かっていったのでした。
メシアが来て外国(ローマ)を裁く前に、自分たちユダヤ人に裁きがせまっているという危機意識があったからこそ人々はヨハネのもとに集まったわけです。
裁きにおいて神がユダヤ人も異邦人も区別されないとすれば、救いにおいても同様になるはずです。
ここに福音が近づいていることがわかります。
イエス様がバプテスマを受けたことについて、古来多くの人たちが困惑してきました。
バプテスマを罪を赦してもらうための儀式と考えると確かに罪のないイエス様という姿と矛盾してしまいます。
そこで、このバプテスマはイエス様の謙遜と民との連帯を示すものだと言われています。
それは間違いありませんが、民と同じ立場というのは、民同様に罪の赦しを必要としていたということではないでしょう。
むしろヨハネの語る選びの変化、つまり民族の制約からの解放という方向性から考えることができます。
イエス様は割礼を受けユダヤ人としてのアイデンティティを引き受けられました。
そのユダヤ人だからこそ、救いがユダヤ民族という枠組みから世界に羽ばたく役割を果たすことができるのです。
「悔い改め」とは「考え方の転換」です。今まで正しいとされていたことが廃棄され、新しい考え方によって歩き出すことです。
イエス様も、異邦人に対してまずは、「自分はイスラエルの失われた人々のために遣わされた」と言われました。
イエス様はその上でその異邦人にも手を差し伸べられました。
これは単に外国人にも寛容だという話ではなく、選びに関する転換を示しています。
ヨハネのバプテスマを受けたイエス様は、他のだれよりもこの転換をご存知であり、身をもってそれ実現するために来られたのです。
そして、この選びの転換は、単に民族のことだけでなく、階級や性別などあらゆる壁を乗り越えるものであることを忘れてはなりません。
さて、イエス様がバプテスマを受け水から上がられた時に、天が開け御霊が下って来られました。
聖霊のバプテスマを授けるお方としての目に見える証しですが、同時に天からの声も聞こえました。
神がイエス様をご自身の愛する子であり、喜んでおられるという声でした。
これはイザヤの預言(42章1〜4節)の反映です。「わたしのしもべ。わたしの心の喜ぶわたしの選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」とあります。
この「しもべ」はメシアとされていますが、神に喜ばれ、選ばれ、聖霊が与えられる者であり、国々(つまりユダヤを超えた世界中)に公義(原語は裁き)をもたらすのです。
彼は叫ばず、いたんだ葦を折ることもなく等、謙遜で弱者の友である「しもべ」です。
すなわち権力者でもなく宣伝マンのような宗教家でもなく、偽りに満ちたこの世のやり方ではなく、ひたすらまことをもって公義(裁き)をもたらします。
たとえどんなそれが困難であっても「衰えず、くじけない」とあります。
イエス様のしもべとしての姿がここに描かれています。今後のイエス様の在り方を神が宣言されたと言えるでしょう。
「主のしもべ」についてイザヤは52章、53章で、その苦しみとの意義について述べ、後の十字架の予告しています。
イエス様はバプテスマによって公生涯を始められましたが、それは、この「苦難のしもべ」であるメシアとしての歩みを公けにするものだったのです。
ちなみに、イエス様をメシアとして受け入れない人々は、この「しもべ」はあくまでイスラエルのことだと主張していますが、それも確かに言えるでしょう。
彼らの本分、すなわち選びの目的は、主のしもべとして祭司の役割を果たすことでした。
その意味で、イエス様がバプテスマを受けたのは、イスラエルと民とご自分を同一化するためだったとも言えます。
イスラエルに求められていた「悔い改め」、すなわち方向転換は、この世の一国家から祭司の民になることだったとすれば、イエス様はその方向を身をもって表わされたわけです。
すなわち、「主のしもべ」イスラエルの代表でもあるということです。
イエス様が「ユダヤ人の王」であるとのちに呼ばれるのも、そのような意味においてです。
イエス様は新約の時代をもたらしましたが、ただひとりで来られてそれを宣言するのではなく、民衆の友として歩み、「主のしもべ」としての苦難と忍耐を通してそれを実現されたのです。
水から上がったイエス様にかけられた言葉にあってイザヤにないのが、「わたしの愛する子」という言葉です。
もちろん、イエス様が神に愛される特別なひとり子であるというのは言うまでもありませんが、しかし、神はイスラエルをご自身の子であると呼んでおられることも忘れるべきではありません。(出エジプト4章22節、イザヤ43章6節、エレミヤ31章9節等)
<考察>
@ イエス様がバプテスマを受けた時、周囲の人はどう思ったでしょうか?
A 「裁き」をもたらすというと「救い」とは別の印象を持たないでしょうか?
B イエス様のバプテスマと私たちのバプテスマはどのようにつながりますか?