メッセージ要約

「バプテスマのヨハネ」

マタイによる福音書(Matthew)3章

 

「アガぺ(愛)」について読んできました。

アガぺとは、どんな状況でも「上から覆い」「真実の関係を維持し」「将来の可能性を見つめ」「下から支え続ける」働きのことだと学びました。

このアガぺが目に見える形で現れたのがキリストの生涯です。

これからしばらくマタイによる福音書を通して、このアガぺの働きを見ていきましょう。

 

前回のクリスマス前後にマタイ福音書1章と2章を読み、キリスト降誕と旧約聖書の関係を見ましたので、今回は3章から読んでいきます。

キリスト降誕後については、ルカ福音書に少年時代のエピソードがひとつ記録されているだけですが、キリストの公生涯について全福音書はバプテスマのヨハネの出現から記述が始まっています。

バプテスマのヨハネの存在は当時からよく知られていたのでしょう。(バプテスマのヨハネは、このテキストでは以降単にヨハネと記します。イエスの弟子のヨハネやヨハネ福音書とは別です)。

イエスの弟子の内数名は以前はヨハネの弟子でもあったようですから、当然ヨハネとイエスとの類似と相違がテーマとなっていました。

 

旧約の時代から、メシア(キリスト)出現の前に一人の人物が遣わされると信じられてきました。イザヤは「荒野で叫ぶ者」、マラキは「エリア」などと呼んでいます。

そのような先駆者は、キリスト以前とキリスト以後を繋ぐ役割をしています。

言い換えると、旧約時代を総括し、新約時代の幕開けを告げる者ということになります。

そのような人物が当時重要に思われたのは当然として、今日の私たちには意味があるのでしょうか。

もちろん大きな意味があります。私たちは旧約と新約を合わせて聖書として読んでいるのですから、両者のつながりを理解することは重要です。その真ん中にいるのがヨハネなのです。

 

ヨハネが登場した時の中心メッセージは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」というものでした。

新約時代がもうすぐそこに迫っているのだから、考え方を変えなさい(悔い改めという言葉はそういう意味)というものです。

重要なメッセージではありますが、これだけでは何をどう変えたらよいのかはわかりません。

しか、しこのメッセージに応答して、大くの人がヨハネの所に来たとあります。

自分の罪を告白しバプテスマ(ヨルダン川に全身浸かるみそぎのようなもの)を受けました。

考え方はこうです。現状では自分たちイスラエルはローマ帝国に支配され悲惨な生活を送っている。しかしまもなくメシアが来て自分たちを解放してくださる。天の御国、つまりローマ皇帝ではなく神が支配する国が作られる。だからその国にふさわしいものとなる準備をしなければならない。ふさわしくないもの(つまり罪)があれば告白し、禊ぎをして清められ必要がある。そのようなものであったと言えるでしょう。

 

しかし、パリサイ人やサドカイ人といった宗教家にたいしてヨハネは厳しいことを言っています。

悔い改めにふさわしい実を結べ。自分の先祖はアブラハムだなどと言うなというものでした。

ここが重要なポイントです。旧約と新約をつなぐところだからです。

世間ではよく旧約は行いの宗教で新約は信仰の宗教だと言いますが、それは的を得ていません。

ユダヤ人の立場は旧約から一貫して、「自分たちは神に選ばれた者」つまり選民だということです。

自分たちはアブラハムの子孫だというのはそういうことです。

この選民思想も誤解されますが、それは自分たちは他の民族より優れているという優生思想では

選ばれたのは、優れているからではなく、最も小さい種族が用いられることによって、人ではなく神の栄光を表すためであり、また選ばれたのは、謹んで神と人に仕える祭司の役割を果たすためだというものです。

神の選びというのは、本来神の恩恵と奉仕を表すものなのです。

 

しかし、今もかわりませんが、当時の宗教家たちの中には選民思想を取り違え、自分たちをエリートとし、同胞の貧者や弱者を排除し、また異邦人を見下す民族主義に染まる人たちがいました。

もちろん、そのような人たちが「悔い改め」選民に関する間違った考えや態度を改めるなら、ヨハネからバプテスマを受ける意味があります。しかし、そうではなく、バプテスマによってますます間違ったエリート意識を強める危険も大きいのです。現に当時の宗教家たちはイエスを十字架へと送ってしまったのでした。

 

神の恩恵を表し、人々への奉仕を意味する選民(つまりしもべ)という考え方は旧約時代も新約時代も同じだとしたら、違いは何なのでしょうか。それはヨハネとイエスの違いでもあります。

その違いとは、だれが選民なのかという問題です。

旧約では、神との契約を結んだ民族でした。契約は文章となっており、民族も判別できる形で存在しているのですからある意味明快なのですが、そこには越えられない限界がありました。

その限界とは文章(文字)という制約と、民族という制約でした。

文章の制約というのは、文は明確化すればするほど言えることは限定的になるということであり、民族の制約というのは、同様に民族を純化すればするほど排他的になるという宿命だということです。

 

マタイはパウロのようにこのテーマを論理的に述べているわけではありませんが、ヨハネの意義と限界を通して同じ内容を語っています。そして、同じことを、ヨハネによる水のバプテスマとイエスによる聖霊のバプテスマとを対比することによって指し示しているのです。

結論を先取りすれば、新約時代の選民とは、文書による契約を結んだ民ではなく聖霊を受けた民のことであり、もはや民族は関係ありません。

民族が関係ないというのは同時に民族に基づく宗教に限定されないということであり、また文書の契約ではなというのは、法律で規定された国家や規則でまとまっている団体などに限定されないということです。

神の恩恵はすべての人に向けられており、それは文字を超えて聖霊によってもたらされます。

新約とはそのようなものであり、その実現のために来られたメシアがイエスその人なのです。

 

                                                                                                                                                                  

<考察>

@     ヨハネはその姿からエッセネ派と関係があったと思われます。この派について調べてみましょう。

A     きたるべき「日」は解放の日なのに、なぜ「御怒り」と呼ばれているのでしょうか?

B     石ころからでもアブラハムの子孫が起きるなら、ユダヤ人の存在意義は何でしょうか?