メッセージ要約
「御霊の実E」
第一コリント(1st Corinthians)13章
「アガぺ」の章を読んできましたが、その最後の個所です。
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛である」という有名な言葉です。
これまでの個所で一時的なものと永続するものとの対比を読みましたが、最初の問題は、そもそも人が一時的なものよりも永続するものを優れていると思うのかというものでした。
もし永続するものがありがたくないのならば、信仰と希望と愛が永続すると言ってもあまり意味がなくなってしまいます。
これについては、人は両面があることを見ました。一般的に人は長期的なことよりも目先のものに囚われる傾向があります。刹那的な喜びを第一にする人は多いです。
一方で、人は自分が大切に思うものが永続して欲しいと願います。今はいわゆるお盆の季節ですが、伝統的には先祖の霊が一時的に戻ってくる時期と言われています。
家族の絆は、死を超えて永続して欲しいという人間の願いが投影されていると言えます。
人生には終わりがあるからこそ、一瞬一瞬に価値があるという考えがあります。
同時に死後の世界や生まれ変わりを願う考えもあります。
これが何を意味するのか、少し詳しく見ていきましょう。
終わりがあるからこそ今を大事にしようという時に、大事にしようとするものは何でしょうか。
今しかできない経験が大切だという時に、どのような経験が大切だとされるのでしょうか。
普通それは思い出になるような経験でしょう。
経験自体は、今まさにそこでしかできないから大切なのだとは言えますが、もしそれが何の思い出にもならないものであれば、つまり、今を楽しむと言っても、楽しんだ記憶さえ残らないようなものであれば、それは大した経験とは言えません。
これは悪い意味でも言えます。刹那の喜びのために身を滅ぼすような薬物中毒にしても、一瞬の快楽を記憶してしまった脳が、その再現を求め続けるために抜け出すことが難しくなってしまうのです。
純粋な刹那主義というのは現実的ではありません。
刹那的な経験が楽しいとしても、「楽しい」ということ自体は続いて欲しいのです。
もちろん、「楽しい状態」が休むことく続くということはありません。
楽しい時があるのは、楽しくない時もあるからです。
ですから、人が求めているのは、「不断」の楽しさではなく、「反復する」楽しさであり、しかも、それがただ反復するだけでなく、可能であるならば徐々に増し加わっていくような楽しさであると言えます。
おそらく、一般的に永続する云々、不滅の云々というのは、そのようなものを指しているのでしょう。
桜は散るから美しいといいますが、来年も咲くという前提があります。
個々の花びらは一時的に咲くからこそ、「美」という時間を超えたものを表しています。
お盆の時期、一時的に家族が集まるのは、限りある人間が、絆という目に見えないものを確認するためだとも言えます。
ですから、目に見えるもの、一時的なものは、その限りある姿において無限のものを指し示すときに輝くのです。
逆に、無限のもの、永続するものは、限りあるものを通してのみその姿を現します。
刹那と永遠は切り離すことができません。
「いつまでも続くものは信仰と希望と愛である」という時に、このようなことを考慮する必要があります。
まず言葉の確認です。ここで「信仰」というのは、強い信頼関係のことですので、「絆」とも表現できます。
キリストが神と人との絆だというのが福音ですが、この絆は自然に成立するものではなく、十字架の死によって成立している特殊なものです。
つまり、神との絆を嫌い、キリストを十字架刑に処した人々を神が赦すという出来事によって結ばれている絆であり、それは人が忘れることはあっても決して破壊することができないものです。
そのような絆こそがいつまでも続くのです。
「希望」は「絆」と不可分です。不滅の絆とは、ただ同じ絆が連続しているのではなく、絆を弱めるような出来事があるたびに、それを乗り越えていくことによって絆が深められるという性質のものです。
この「乗り越えていく」ことができるというのが希望に他なりません。
ですから、不滅の希望とは、絆が揺さぶられ、失望するようなことがあっても、なお絶望することなく前進していくことができる原動力となるものです。
言い換えると、十字架の赦しを土台とした絆は失望を乗り越えるということです。
パウロは「信仰」「希望」「愛」と列挙したうえで「愛」が最大だと言っていますが、これは何か別々の三つのものがあって、比較してみると愛が一番だという話ではなくて、「愛」の中に「信仰」と「希望」が含まれていると考えたほうが良いでしょう。
ですから「アガぺ」(愛)が永遠だというのは、一般的な意味での愛という感情が永続するということではなく、
失望を乗り越えて深められていく絆という働き全体が、すなわち「アガぺ」なのだと言えるでしょう。
「アガぺ」とは単なる気持ちではなく、永続する神の「働き」なのです。
キリストの死と復活という出来事を成立させた働きがアガぺであり、キリストにつながる私たちもまたそのアガぺを体験することになるのです。
このように、「いつまでも残るもの」は、限りあるこの世から離れたあの世にあるのではなく、この世の有限な出来事の陰でそれを支え、貫き、導いでいる働きです。
有限なものを乗り越えていく働きですから、有限なものを通して現れてくるものです。
キリストという神の「アガぺ」は、アガぺからかけ離れた私たち人間を通して、その人間を赦し、なお導き続けるということによって、その不滅の姿を現しているのです。
<考察>
@ 自分にとって、いつまでも残って欲しいものは何でしょうか?
A 永続するのは「働き」であって物ではないということは何を意味するでしょうか?
B 日常のどのような場所に「アガぺ」を見出せるでしょうか?