メッセージ要約

「御霊の実D」

第一コリント(1st Corinthians)13章

 

前回に続いて、「アガぺ」の章を読んでいきます。今回が結びの個所です。

「顔と顔を合わせて見る」という表現は、「完全に知られているように完全に知ることになる」と言い換えられています。

今回は、この「完全に知られている〜」という部分に注目しましょう。

 

現在、私たちは「完全に知られて」います。もちろん、神に知られているということです。

神が「全知全能」という言われる以上、自分のことを神が完全に知っているというのは当然の理屈です。

しかし理屈はそうでも体験はそうとは限りません。

まずは、「知られている」「完全に知られている」というのはどういうことかを考えてみましょう。

 

昨今のコロナ禍で、諸外国と日本の対策の違いが浮き彫りになっています。

感染流行を抑えている国では感染者の位置情報を始め行動を厳しく監視することによって感染拡大を抑えています。

それに対して日本では、接触確認アプリにしても個人情報が使われないようにとの配慮がされています。

アメリカともなると、ある人たちはマスク着用の強制すら個人の自由の侵害だと主張しています。

キーワードはプライバシーです。

公権力や社会、他人がどこまでプライベートな領域まで踏み込めるのかという問題です。

言い換えると、自分の事をどもまで知られていいのかということです。

 

自分のことを全て知られてよいという人、いわば「丸裸」にされても構わないという人はまずいないでしょう。

知られて恥ずかしい云々以上に、プライバシーは個人の尊厳にかかわる事柄だからです。

というより、そもそもプライバシーがなければ「個人」というものも実質的には存在しないことになってしまいます。

 

しかし同時に私たちは自分のことを知って欲しい、理解して欲しいという願望も持っています。

そうでなければ自己表現もなく、他者とのコミュニケーションも機械的なものだけになってしまいます。

そのような世界はもはや「社会」とは呼べないでしょう。

 

ですから私たちは相反するふたつの願望の中で折り合いをつけながら生きているわけです。

ある程度は自分のことを分かって欲しいが、あまりプライベートな所まで踏み込んで欲しくはない。

その線引きは難しく、相手によって変わることはもちろん、時と場合によって流動的です。

しかし、その線引きができないとあらゆる問題が起こってきます。

何でも話せる親友が求められたり、親しき中にも礼儀ありと言われたり、我が道を行く人が尊敬されたり、

夏目漱石の言葉で言えば「とかくこの世は住みにくい」のです。

 

これは人間関係のことですが、神との関係はどうなるのでしょうか。

私たちは、神に自分のことを全て知っていて欲しいのでしょうか。

苦難の中にある時、私たちはしばしば「神様は自分を見捨てた」とか「神様は私のことをわかってくれていない」等と叫びたくなります。

言葉では「神は全てをご存知だ」と言っても、「知っているだけで理解はしてくれていない」「見てはいても共感はしていない」と感じてしまうでしょう。

しかし、「完全に知る」というのは、ただ知っている、つまりこちらの情報を持っているのではなく、あらゆる意味で完全に理解しているということです。

状況は分かるが気持ちは分からないなどということはありません。

もちろん、神様に人間の痛みが感じられるのかという疑問も湧きますが、その痛みも創造されたのは神であることを忘れてはなりません。

 

ですから神は私たちのことを完全にご存知なのですが、それは他方では私たちのプライバシーは無いということも意味します。神の前では人は丸裸なのです。それは喜ばしいことなのでしょうか。

おそらく一般的には、神も他の人間同様、分かって欲しいが、ある程度以上は踏み込まないでいただきたいという、ある意味では身勝手な願いを持っているのでしょう。

それをご利益信仰と呼んでしまうのは簡単です。しかし、プライバシーが無いということは神の前では個人として成立しないということにはならないでしょうか。

 

答えはイエスでありノーです。イエスというのは、「人は神を見て生きていることはできない」と言われる通り、

神の前では無であり個人の自立もなにもあったものではありません。

しかしノーだというのは、人はキリストによって神の子として神の前で生きるようになるからです。

プライバシーとはその人の最も中心的な部分であり、外部から侵されてはならないものです。

世間においてそれは、生まれつきの資質や立場、考え方などであり、あるいは様々な傷や失敗、さらには罪によって成り立っている部分です。

しかしキリストにおいては、そのようなこの世のものが自分の存在の根拠になっているのではなく、キリストご自身が私たちに内におられ、私たちを成立させておられます。

ですから、自分の最もプライベートな部分は私が持って生まれたものやその後に獲得したものではなく、キリストご自身なのです。

それは外部のだれからの侵されることのないものであり、まさに奥義と言えます。

 

コロサイ127節に「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」とありますが、キリストご自身が奥義であることはもちろん、それによってひとり一人が神の子とされることが奥義でもあります。

神のひとり子によって、ひとりの人が唯一の神の前に立てるようになる、すなわち真の個人が誕生すること、それが福音のもたらす祝福に他なりません。

個人の尊厳や人権などというものも、これ無しには絵にかいた餅に過ぎないでしょう。

                                                                                                    

<考察>

@     人に知って欲しいことと知られたくないことは何でしょうか。それぞれどのような特徴がありますか?

A     神に知って欲しいことと知られたくないことは何でしょうか。それぞれどのような特徴がありますか?

B     「いつまでも残るものは信仰と希望と愛である」とありますが、神に完全に知られていることと何か関係があるでしょうか?