メッセージ要約
「御霊の実C」
第一コリント(1st Corinthians)13章
前回に続いて、「アガぺ」の章を読んでいきます。
パウロは「アガぺ」は完全であるのに対して、他のものは不完全で一部分にしか過ぎないと述べると共に、二つのことを述べています。
前回は子供ではなく大人であることを読みました。
今回は、もう一つの、「顔と顔を合わせて見る」という部分を読みます。
パウロは二つの事態を比較しています。鏡にぼんやり映るものを見ている現在と、顔と顔を合わせて見る未来の二つです。
当時の鏡はガラス製ではなく、ぼんやりとしか顔が映りませんでした。同様に、相手の顔もはっきりとは見えていないのが今の状態だということです。
はっきりとは見えないものが何なのかと言えば、同じ節に「完全に知られているように完全に知ることになる」とあるので、それは神のことだと分かります。私を完全に知っているのは神しかいないからです。
神の顔を見るとはどういうことでしょうか。
もちろん神は物ではなく形はありませんから、顔というのが比喩であることは分かります。
聖書では、顔以外にも口や手や腕としった義人的な表現はたくさんあります。
しかし、神は単に見えないだけでなく、どのような形でも表せないというのは大原則ですから、擬人表現の意味を汲み取っていくことが大切になります。
聖書の世界で「神は見えない」というのは、ただ単に神が物ではないからというだけではありません。
出エジプト記33章で神がモーセに言われました。「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。
「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。
わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。
そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。
ところが、申命記では、モーセは神と顔と顔を合わせて語ったとあります。
一方、ヨハネによる福音書では、だれも神を見た者はいないと書いてあります。
いったいどういうことなのでしょうか?
このことから、神を見る、あるいは神の顔を見る等との表現は、物理的な話ではなく、神と人との関係、あるいは人格的な対話のことだとわかります。
特に、「顔と顔を合わせる」つまり直面するというのは、仲介者なしに親しくというニュアンスがあります。
神はモーセを友のように親しく接しましたが、そこにいた民衆とは距離がありました。
モーセも民衆も神の声を聞いたのですが、親しい交流が持てたのはモーセだけであって、民衆は恐れおののき、石の板に刻まれた十戒、そして律法というものが与えられるという形で神との接点が維持されました。
そのように、神の友のようなモーセでさえ、結局神のうしろしか見せてもらえないのは、神の栄光のためでした。
結局のところ、神は神、人は人であって、神の栄光そのものは人を超絶しており、人はそれを目の当たりにすることはできないのです。これが、神は聖であるということの意味です。聖とは、まったく別ということです。
神と人は本質的、絶対的に異なるからこそ神は神、人は人なのです。
神の友とさえ呼ばれたモーセでさえ、神の顔、すなわち神の栄光そのものを見ることはかないませんでした。
ただ、栄光の残像、神の後ろ姿だけは仰ぐことが許されたのですが、その際、神はご自身のかたわらにある「岩」を指し示し、その上に立るようモーセに命じました。
そして、神の栄光によってモーセが滅ぼされないように、その岩の裂け目に彼を隠したのです。
これは言うまでもなく、来るべきキリストの出来事を示す型です。
神のかたわらの岩とはキリストであり、岩の裂け目は十字架の出来事を予告しています。
神は今日私たちを、その岩に招いておられます。モーセ同様、私たちもキリストの友と呼ばれているからです。
友であるからこそ、神の栄光にあずかることができるのです。
ただし、私たちにはモーセにまさる恵みが与えられています。
確かに現在の所、私たちはまだぼんやりとしか見れません。モーセが後ろ姿しか見れなかったのと同様です。
しかし、モーセはそこがゴールでしたが、私たちにはその先が用意されています。
キリストはモーセが一時的に隠れた岩とは違って、永遠に生きておられる岩であって、そこに隠れる者をキリストに似たものに変える力があるのです。
モーセの時は、文字によって書かれた律法が与えられ、その律法によって、神と人の関係は維持されたのですが、
今日、キリストという岩に隠れるものには、律法ではなく聖霊が与えられます。
律法は民衆をモーセのレベルまで引き上げることを目的としていたとすれば、聖霊はモーセを出発点として、私たちをキリストの姿に変えることを目的としています。
キリストの姿に変えられたものは、岩の裂け目を通って、やがて神のうしろではなく、その前に出ることができるようになります。なぜなら私たちはキリストの弟・妹とされているからです。
そして、もはや私たちが神の栄光によって焼き尽くされることはないのです。
これが私たちを捉えている希望に他なりません。
最後に、顔と顔を合わせられず、ぼんやりと見ているという事態は、神との関係に限らないことも覚えます。
人と人との関わりにおいても、それが本当に人格と人格の出会いになっていることは、むしろ稀なことではないでしょうか。
普段私たちはお互いの立場や外見、振る舞いなどによって判断し関わり合います。
たとえ相手の顔をじっと見つめたとしても、それだけで相手の真実に迫れる保証はありません。
やはり、ぼんやりと鏡に映った映像を見ているようなものです。
人格と人格が直に出会うというのは、自分の力や環境によって自然に起こることではなく、あくまでも神の恵みと導きによってもたらされることを忘れず、へりくだって祈りつつ歩んでいきましょう。
<考察>
@ 「顔」というものは、どのような意味をもっているでしょうか?
A 相手の人格に触れたと感じるのは、どのような時でしょうか?