メッセージ要約

「御霊の実B」

第一コリント(1st Corinthians)13章

 

前回に続いて、「アガぺ」の章を読んでいきます。

パウロは「アガぺ」は完全であるのに対して、他のものは不完全で一部分にしか過ぎないと述べると共に、二つのことを述べています。

ひとつは子供ではなく大人であること、もう一つは、顔と顔を合わせて見るということです。

 

「私が子どもであった時は子どもとして話し〜おとなになったときは、子どもであることをやめました」とパウロは言っています。

やめましたというのは完了形ですから、もうすでにやめており、今は子どもではなくおとなだという意味です。

パウロはこの手紙の冒頭で、コリントの教会の人は成人ではなく、固い食物を与えられないもの、つまり幼子であると書いています。

この意味での幼子とは、御霊ではなく生まれつきの肉に属している者という意味で、もちろん卒業すべきものです。

そして、この幼子の特徴は分派だと言っています。パウロ派やアポロ派など、自分の師の名を語り誇っていたようです。

パウロが御霊の賜物について、お互いを建て上げるためのものだと言うのは、もちろんキリストのからだ全体の成長のことについてであって、自分の属する派閥や団体の成長のことではありません。

しかし人間はどうしても目に見えるものにこだわり、自分の存在意義をそこに見出そうとしてしまいます。

私たちは、目に見えるものが一時的で一部分だという時に、この世、俗世間のものをすぐ思い浮かべますし、またそれは事実ではありますが、注意したいのは、パウロはここで、教会の内部の話をしているということです。

パウロの弟子だ、アポロの弟子だ、だれそれの弟子だ、なになに教派のものだという類の話です。

そのようなことにこだわるのは、悪いというよりも幼いとパウロは言っているのです。

 

キリストのからだは、様々な異なる部分から成っていて、異なるからこそ意味があり、いたわり、助け合うのだとパウロは述べていますが、このことはよく考える必要があります。

この、からだの一部分という表現は誤解される可能性があります。つまり、からだを機械のように考え、一部分というのを、機械の部品のように考えるという誤りです。

確かに、複雑な機械には様々な部品があり全体として機能しています。

そして、そこで各部品に求められるのは、その部品が最高のパフォーマンスをすることです。

そして機能しなくなった部品は交換されます。

からだはどうでしょうか。確かに「からだ」もあくまでも比喩であって、キリストのからだの真実を完全に表現はできません。

からだでも、爪は髪の毛など、切ってもまた生えてくるものはたくさんありますし、今では人口心肺などというものさえあります。しかしそれは比喩の限界であって、キリストのからだの各部分は部品ではなく廃棄され交換されることはありません。

というのは、キリストのからだの一部分、すなわちキリストにある個人は、ただの一部分ではなく、その内にキリストが住んでおられる存在でもあるからです。

 

ですから、分派、派閥にこだわるというのは、ふたつの意味で間違っていることがわかります。

ひとつは、キリストのからだという全体が目に見えないがために、自分の周りの目に見えるものに執着してしまうということであり、もうひとつは、個人を部品のように考えてしまい、どのように役にたつかという観点しかなくなり、「私にうちにおられるキリスト」という視点を失ってしまうという誤りです。

 

このふたつの誤りについて、前者の誤りは重大ですが分かりやすい誤りでもあります。

今日でもキリスト教に様々な教派があり、時には対立までしてしまうのは嘆かわしいことですが、これは外部から観察できるという意味では分かりやすいとも言えます。実際、キリスト教を批判する人はしばしまことことを指摘します。

もちろん、分かりやすいから解決できるというものでもありません。

一部分に捉われて全体を見失うということは日常的なことでもあります。

問われるのは、目に見えない「キリストのからだ」を捉える心の目を持てるかどうかです。

もちろん、それは生まれつきの能力ではなく、祈りと御言葉を通して聖霊によって教えられることが必要です。

 

一方、後者の誤りは分かりにくい面があります。

互いに仕えあうということが、この世の滅私奉公と誤解される危険があるからです。

「滅私」が個人としての人間性を捨てて、いわば部品のようになり、ひたすら他に尽くすという構図があります。

自分を殺すとか私に死ぬという表現をキリスト抜きに受け取ると、それは文字通り自分の破滅を意味します。

そうではなく、パウロの「もはや私ではなくキリストが私のうちに生きておられる」という告白が土台でなければなりません。

 

これには、神秘的な啓示の体験という側面とそうではない日常的な側面があります。

そのうち言葉で説明できるのは日常的な側面です。

すなわち、私たちの日常の歩みにおいて、自分の力で生きているように見えても、実際にはキリストに生かされているという事実です。

もちろんこの事実自体も忘れがちではありますが、私たちが自分の無力を悟る機会はいくらでもあるので、そのたびに、キリストに生かされているということを体験できます。

 

ただし、キリストが遠くから何か遠隔操作のようにして自分を導いているように考えてはなりません。

すなわち、まるで宇宙人か何かのように遠くにいる超人的な存在というイメージを想像するのではありません。

キリストが私のうちにおられるというのは、キリストが私自身の根底で働いておられるということです。

「滅私」というのは、この事実を認めない自分からこの事実に基づく自分に転換するということです。

その上でなされる「奉公」ですが、ここでの「公」とは自分の周りの組織、社会ではなく、キリストが内在しておられる人々全体のことです。

ですから、私たちに求められるのは、私のうちにおられるキリストと、キリストのうちにある人々全体(すなわちキリストのからだである教会)のビジョンなのです。

 

<考察>

@     幼子からおとなになりたいと思うでしょうか?

A     人はなぜ分派を作るのが好きなのでしょうか?