メッセージ要約

「御霊の実A」

第一コリント(1st Corinthians)13章

 

前回に続いて、最大の御霊の賜物であり、しかもその「実」である「アガぺ」について読んでいきます。

パウロは「アガぺ」はこのように現れ働くのだと述べてから、この「アガぺ」は決して絶えることがないとまとめています。この「絶えることがないアガぺ」は他となにが違うのでしょうか。

 

預言、異言、知識などの賜物は廃れるのに対してアガぺは廃れない理由についてパウロは、知識や預言は一部分だからであるとしています。この一部分というのはどういうことでしょうか。

まず、知識や預言(あるいはは異言など)は現代風には「情報」と言うことができます。

神のご計画や神のご性質について「知り」「語る」というのは、それらのことの情報を持っており、情報を提供することができるということです。

情報というのは、もちろん「言語」によるものでなく、奇跡や癒しも含みます。

奇跡や癒しにも、それらが語るメッセージがあり、それなくしては、無意味な超常現象になってしまうでしょう。

形はどうであれ、そのような「情報」はとても貴重であり、私たちを照らし導く光ともなります。

 

しかし大切なのは、情報はあくまで情報であり、その情報が指し示している本体、ここでは神そのものではないということです。情報と本体の混同、これが多くの過ちの出発点なのです。

これは聖書の最重要テーマのひとつで、しかも宗教と人間の在り方を示すものなので確認しましょう。

 

人間は古来、神などの人を超えた存在との関わりの中で生活してきました。

それはもともとかなり直接的で神秘的な体験でした。

例えば日本では神の霊が降りてきたところを縄を張って聖別しましたが、その神がどのような存在なのかは曖昧でした。

あるいは、巫女に神霊が突然下り、神憑り状態になることもありました。

いずれにしても、それは場所も時間も人の予測を超えていて、ただその現れにひれ伏すしかないようなものでした。

 

しかし人間はその状態に留まることなく、この「神体験」をコントロールしようとしました。

神社を建て場所を限定したり、巫女も訓練によって神憑り状態を限定できるようになりました。

そのようにして、神体験がいつ、どこで、どのように起こるかを予測したり語ることができるようになったのです。

これが神体験の情報化ということです。そして、それが宗教と呼ばれるものなのです。

 

ユダヤの歴史でも、例えばヤコブが旅の途上夢の中で御使いが上り下りするのを見、さらに神の約束のことばを聞いて、そこに石の柱を立て、その地をベテル(神の家)と呼びました。

神との出会いは予測不可能で、しかも直接的な体験だったのです。

しかし、出エジプトの後、神の幕屋が出来、神の臨在の場所が限定されてきました。

また、神のことばも律法という形でまとめられ、神の意志が明文化されました。

このようにして、神とのかかわり方が情報化されたのです。

 

情報化もメリットはいろいろあります。

まず、個人の体験を直接体験していない人に伝えることができます。

また、神とのかかわり方が決められ規則化されると、安心して礼拝など宗教生活がおくれるようになります。

この路線を徹底的に進めたのがユダヤの民でした。

彼らは約束の地を追われてバビロンに囚われていたとき、神の臨在の場所にアクセスできずとも礼拝を続けることができるように、究極の情報化を行いました。すなわち、聖書をまとめたのです。

これで神の意志は言葉となり、時も場所も選ばす人がアクセスできるようになりました。

もちろん最初は巻物で場所も数も限られていましたが、後に印刷技術が開発され本となり、今ではデジタル化され、スマホ一台あれば、いつでもどこでも礼拝できるようになったのです。

今回のコロナ禍でも、聖書のみならず様々なものがデジタル化、オンライン化され、場所や物品に依存しない、まさに情報化時代の申し子のような宗教であることを証明しました。

 

しかし、すべてが万々歳かと言えばそうではありません。

デジタル化され、スマホに住むようになったのは神ではなく、ただ神の情報にすぎないのです。

昔、神殿に住まないと仰せられた神は、今日インターネットの中に住んでおられるわけではありません。

情報は本体の一部分を指し示しているだけで、本体そのものではないのです。

言い換えると、情報を駆使して作れるのは仮想現実であり、現実ではないということです。

 

このことをコロナ禍は私たちに突き付けています。人と人とが直に出会うことができず、一度情報化された手段を通さなければならない現実にもどかしさを感じています。

人はオンラインでしか触れることができず、逆にウイルスは直接接触する可能性があるというのは、なんと皮肉なことでしょう。

 

ユダヤで神は律法という名の情報に矮小化され、人々は生ける神との関係を見失ってしまいました。

これは悲劇であるとともに必要な準備でもあったのです。

与えられたすべての情報は、それ自体がゴールではなく来るべき本体を指し示していました。

「初めにことばがあった。ことばは神であった。」

しかし、この「ことば」は情報に過ぎない人間のことばではありません。神のことばなのです。

そして時は満ちて、ことばは人となりました。

このお方を通して、私たちは神に触れることができるのです。

 

情報は一部であり一時的です。すなわち情報は常に更新されなければなりません。

いつまでも絶えることのないもの、それは情報の指し示す本体、すなわち人となったアガぺであるキリストご自身に他なりません。

 

<考察>

@     一時的なものより永続するものの方が優れていると思いますか?

A     「使い捨て社会」の中で、永続するものの価値を見出せるでしょうか?

B     「聖書」だけでは不十分で、キリストが来られる必要があったことは、どのような意味を持っていますか?