メッセージ要約

「御霊の実」

第一コリント(1st Corinthians)13章

 

異言など御霊の賜物について見ましたが、パウロはその議論の中で「さらにまさる道」としての愛を説いています。

そこで、賜物の文脈の中で「愛」について学んでいきましょう。

 

「愛」という言葉はいろいろな意味で使われます。色々ありすぎて、はたして「愛」とは何なんだろうと考えると容易に答えはでません。

もともと日本語で「愛」というのは感覚的な色合いの強い言葉だったので、キリシタン時代の聖書では「愛」ではなく「ご大切」「大切」という単語が使われていました。

新約聖書でも、よく知られているように、愛に相当する言葉として「アガぺ」が使われていますが、ギリシャ語では他に「エロス」や「フィリア」という言葉もあり、その違いについて、エロスは男女の愛、フィリアは友愛などと説明されます。

しかし、もともと異なるものを「愛」という言葉でくくるよりも、愛という言葉は一旦忘れて、単純に「アガぺ」という言葉が何を意味しているのかを見るほうが有益です。

 

第一コリント13章の4節から8節は「愛の賛歌」などと呼ばれ結婚式でいつも朗読されています。

美しい詩文ではありますが、愛をロマンティックに讃える歌というよりも、アガぺの大切な解き明かしとして読まなければなりません。

パウロはアガぺを様々な動詞で表現しています。日本語ですと、「愛は寛容」「愛は親切」のように、愛とは何々であるというように名詞で説明している部分もありますが、実は全て動詞であるところがポイントです。

まず、アガぺは「寛容」つまり違いや対立、さらには敵意さえも耐えて受け入れるとことだとあります。

続いて「親切」とは、父なる神が情け深いという表現の動詞で、「寛容」とセットで神のご性質とその行動が表現されています。この二つが能動的な動詞です。

 

この後に否定の動詞が続きます。

「ねたまない」「自慢しない」「高慢にならない」「礼儀に反しない」は、おおよそ日本語のとおりの意味です。

これらは、世間的に言えば、人との比較で自分の立ち位置が決めないということです。

そして、向上心を持ちながらも、偉ぶることなく人に敬意を持って接するということで、日本では比較的尊敬される態度です。

恋愛に没頭する人が、時に他人をねたみ、恋人を自慢し、自分も偉くなったように錯覚し、周囲に迷惑をかけまくるという事があります。

また、友愛、たとえば同好の集まりが、身内には優しいが外部に対しては閉鎖的な空間になっている事もよくあることです。

しかし「アガぺ」はそうではない、つまり、恋愛や友愛の本性とは異なる働きなのです。

 

「自分の利益を求めず」と続きますが、「利益」というのは補足で、「自分自身を追求しない」ということです。

異言と預言についての議論もこれに関してのことです。自分の利益にしかならない異言よりも他人の益になる賜物を優先するというのもその一例です。

 

「怒らず」とは、「怒らされない」「挑発にのらない」という意味です。

他人の益になるように行動するというのは、人に振り回されるということではありません。

あらゆる怒りが悪だというのではなく、他人にコントロールされて怒るようなことはないという意味です。

「人のした悪を思わず」というのは、人のした悪の記録をとらないという意味です。

不正を喜ばずとありますから、悪に対して鈍感であるというのではありまえん。

いわゆるネガティブリストで人を評価せず、可能性を見るということです。

注意点は、これを根拠のないポジティブシンキング(可能性思考)と混同しないことです。

「真理を喜ぶ」のですから、単なる空想話や思い込みではなく、事実に基づく可能性、客観的な可能性を見るのです。

そして、もっとも客観的な可能性とは神に根拠を置く可能性であることを忘れてはなりません。

自分の信念を肯定的に告白するなら必ず実現するという話ではなく、神の真実な約束に基づくものを喜ぶということです。

 

このように「アガぺ」の実質が様々な形で語られていますが、大切なことは、これが愛を実現するための律法ではないということです。

言い換えると、主語は「アガぺ」であって「私」ではありません。例えば、私がだれかを愛そうとして寛容に振る舞うというのではなく、「アガぺ」はそのような形で現れるということです。

言うまでもなく、「アガぺ」は人からではなく神から出るものです。というより、「神はアガぺ」なのです。

私たちが求めるのはこのアガぺであり、いわば神ご自身であるのです。

 

最後にパウロはこうまとめています。

アガぺは「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ」と。

「がまん」とあるのは、「覆う、カバーする」という言葉です。また、「耐え忍ぶ」というのは「支える、担う」という意味です。

またここで「すべて」というのは無条件にということです。つまり相手の状況に関係なく、こちらから主体的にという意味です。

何をされても我慢し、うそでも信じ、空想話に期待し、どんな結果になってもただ耐え忍ぶというような、お人好しの話ではありません。

人は様々な形や程度の罪を持った存在ですが、その内実に振り回されず、こちらから相手をカバーし、真実であり、可能性をみつめ、支え続けること、それがアガぺの働きだということです。

十字架の死で私たちの罪を覆い、復活によってご自身の真実を証明し、聖霊によって再臨の希望を保証し、今日も私たちを支えてくださっているキリストこそがこの「アガぺ」であるのは、言うまでもないことでしょう。

この「アガぺ」は決して絶えることがありません。

 

<考察>

@     「愛」という言葉に対してどんなイメージを持っていますか?

A     そのイメージとアガぺを比較すると、共通点や相違点がありますか?

B     何を持っていたとしても「アガぺ」が無いなら無意味だとするパウロに賛同しますか?