メッセージ要約
「御霊の賜物」
第一コリント(1st Corinthians)12章1節〜13節
前回、異言について読みましたが、今回はその他の賜物も含めて初期の教会の姿から学びます。
12章1節でパウロは、「御霊の賜物について」と言っています。直訳すると、「霊のことがら」です。
「霊」にもいろいろありますが、「イエスは主」と告白する霊が神からのものだというのが出発点です。
その上で、御霊の賜物の話に進みます。
この「賜物」はカリスマという単語ですが恵みのことです。つまり無償で提供されるギフトという意味です。
「賜物」は様々でも同じ御霊であり、「奉仕」は様々でも同じ主であり、「働き」は様々でも同じ神とあります。
ここで、「賜物」「奉仕」「働き」の三つが「御霊」「主」「神」と対比されているので、この三つはひとつのことであることが分かります。
言い換えると、賜物(カリスマ)とは互いに仕えるためのものであり、しかもそれは「働き」ですから、物として所有できるようなものではないということです。
「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」とあるとおりです。
与えられているのは、あくまで御霊の「現れ」であり、主体は御霊であるということです。
その現れについて、「知恵のことば」「知識のことば」「信仰」「いやし」「奇跡」「預言」「霊を見分ける力」「異言」「異言の解き明かし」がリストアップされています。
以前、新約聖書の完成とともに異言などの初期の現象は不要となったという意見をみましたが、いやし等まで不要になったというのは無理があります。
ただし、「知識」や「知恵」、「預言」など、神からの言葉によるメッセージが聖書に集大成されているというのも事実なので、今日、単純に初期の教会に帰ればよいわけでもありまえん。
今日も「みことばが与えられる」という表現がありますが、それらは常に聖書のことばとの関連で語られます。
そこには、ふたつのパターンがあります。
ひとつは、聖書にある実際のフレーズが、今ここに向けて語られている言葉として受けとられる場合です。
これは、その聖句が「預言」、すなわち預けられた言葉として響くケースです。
もうひとつは、特定の聖句ではないけれども、その内容が神からのメッセージとして感じられる場合です。
これも、預言や知識・知恵のことばのようなものです。
いずれにせよ、それらは常に解釈、吟味されなければなりません。
すなわち、聖書全体のメッセージ、特に福音に沿っているかということを吟味しなければなりません。
ただ、聖書は膨大なので、常に簡単に吟味できるとは限りません。皆が聖書学者というわけではないからです。
そこで、知識だけでなく、「霊を見分ける力」が必要となります。
これは、霊媒師のような能力のことではなく、聖書をその「スピリット」にふさわしい形で読む能力のことです。
聖書全体の文脈から離れず、しかも機械的ではなく生きた言葉として読むということです。
このリストの中には、言葉ではない賜物、すなわち信仰、いやし、奇跡など、いわゆる力の賜物と呼ばれるものもあります。その中でひとつ注意が必要なのは「信仰」です。
信仰が神の恵みであることは確かですが、ここの「信仰」は賜物のひとつであって、皆が持っているものではありませんから、何か特別な信仰、おそらく尋常でない力を発揮する信仰等を指しているのでしょう。
いずれにせよ、それは人が所有しているものではなく、ある時ある場所で特別に現れる御霊の力なのです。
このような様々な形で御霊は現れますが、28節を見ると、それらの賜物は全く不規則に現れるというよりも、ある人にはこの現れが多いというような傾向もあることがわかります。
パウロは、使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者等を挙げています。
ただし、これらも例を挙げているだけであり、これが全てというわけではありません。聖書の他の個所には他のリストもあります。
今日も使徒・預言者がいるのかどうかは議論が分かれています。
一般に使徒と預言者は決まり文句であって、律法と預言者に対比して使われています。
律法と預言者というのは、実質的には旧約聖書のことですから、使徒と預言者を新約聖書と見ることも可能です。
そうすると、教師は霊を見分けつつ聖書を解き明かす者ということになります。
その後には、いわゆる力の賜物だけでなく、助ける者や治める者など、実際的な働きも続いています。
組織化された教会での役員も、本来は御霊の現れだということです。
パウロはこれらの様々な賜物を身体の様々な器官に例え、それぞれは異なっていても一つの体であり、お互いが協力しあい、いたわりあうものだと説いています。
ひとりひとり皆異なるからこそ、ひとつのからだとして意味があるというのは、根本的な真理で、いくら強調してもしすぎることはありません。
しかし同時に、このことは、会社のような分業制をしいているという意味ではありません。
14章26節以下を見ると、当時のコリント教会では、皆がそれぞれ賛美や教えや黙示など賜物を用いていたようです。
賜物は御霊の現れですから、人を固定した役割分担に縛るようなことはありません。
御霊のあるところには自由があるのです。
ただし、その自由をお互いを建て上げるために使うのです。
それが、御霊に導かれコミュニケーションにあふれる共同体(コミュニティー)の姿なのです。
最後に、このような聖書の記述を、そのまま機械的にマネをすることはできない事を確認しましょう。
もしそうすると、例えば14章34節以下にある、「教会では、妻たちは黙っていなさい」という言葉もそのまま実行しなければならなくなります。
そのような教会もあるのかもしれませんが、御霊の働きを律法化する危険には十分注意しなければなりません。
<考察>
@ ご自分には、どのような御霊の現われがあると思いますか?
A その現われが、どのような形でお互いを「建てあげる」ことに役立っていますか?
B 与えられた御言葉の解釈に困難を覚えたことはありますか?