メッセージ要約

「ペンテコステと異言」

第一コリント(1st Corinthians)14章1〜19節

 

ペンテコステを特徴づけている現象として異言がありました。

今回は、より一般的に「異言」と呼ばれている事柄について考えます。

 

ペンテコステであれほど重要な働きをした異言ですが、今日、異言についてはいろいろな問題があります。

異言に積極的な人から断固反対する人まで、真面目なクリスチャンの間でも立場が大きく分かれています。

大雑把に分類すると以下のようになるでしょう。

@     聖霊のバプテスマの徴は異言であり、今日もそうである。

A     異言は聖霊の賜物のひとつであり、今日もそうである。聖霊のバプテスマの唯一の徴とは考えない。

B     異言などの徴は初代教会に限定されるもので、新約聖書の完成で必要なくなった。

従って、今日「異言」と称する現象があっても偽物である。

C     その他。関心はあるが立場を決められない。あるいは無関心など。

 

以上のように立場の違いは非常に大きいと言えます。

それでも一致を保つに、改めて考えを整理しましょう。

 

まず@について。前回見たように、使徒の働き初期の時代、聖霊のバプテスマの徴は確かに異言でした。

ただし、それは知らない外国語、異言語だったように思われます。

今日も聖霊のバプテスマを受けた人は皆その場で異言語を話すのでしょうか。

もっとも、今日@の立場の人は、聖霊のバプテスマの時の異言を異言語に限定しないようです。

そうなると、使徒の働きの出来事の再現ではなくなってきます。

 

Aの立場でも、異言を異言語と限定せず、さまざまな異言があると考えます。

そして、聖霊のバプテスマの体験も異言の現象に限定しません。

そして異言をあくまで賜物のひとつとして捉えます。

穏当な立場だと思いますが、今度は逆に、「聖霊のバプテスマ」が起こったかどうかを、どのようにして判断するのかが分からなくなります。「徴」が曖昧です。

 

Bの立場にもいろいろバリエーションはありますが、基本的に、今日「異言は廃れた」と考えます。

異言に限らず、使徒の働きには様々な「超常現象」とさえ呼べるような現象が記録されていますが、

それらが今日同様に起こるとは考えないし、また求めません。

当時起こったそれらの出来事は、初代の使徒たちが本物であることの示す特別な徴だったとします。

そして、その使徒たちのメッセージがまとめられ、新約聖書として完成してからは、それらの徴はなくなったというのです。

第一コリント138節から10節の、預言、異言、知識など不完全なものは完全なものが現れたらすたれるという部分を引用し、完全なものは聖書であると解釈します。

今日、聖書が完成している以上、それらの賜物は不要なのだとするのです。

歴史上起こったことがすべても起こるとは限らないというのは重要な点で、聖書に書いてある出来事を全て教理化してはならないというのはその通りです。

ただし、パウロが「完全なもの」とここで言っているのが新約聖書の完成とするのは根拠がなく、文脈からすれば再臨のことだとすべきでしょう。

 

このように、上記@からBのどの立場にも長所・短所があるので、Cの「その他」になってしまうのも仕方がありませんが、そのことをむしろプラスに捉えるのはどうしたら良いのでしょうか。

すなわち、自分自身が混乱せず、しかも様々な立場の人を理解し一致していくには何が必要なのでしょうか。

まず必要なのは、今日「異言」と呼ばれている現象をそのまま見つめることです。

そしてその現象を解釈する時に、それが神からのものなのか、人間の心理現象なのか、それとも悪霊の働きなのか等を早急に決めつけないことです。

自分の経験や教派の教えなどから決めつけではならず、分からないことは分からないとしなければなりません。

その上で私たちは異言を解釈しなければなりません。

しかしその解釈自体も正しいかどうかも評価しなければならず、決定的なことは結局「実」を見て判断するしかないのです。これは預言者の判別にも通じることです。

 

パウロはここで、この実について教えています。

異言を話す者は自分の徳を高める。「徳を高める」と訳されているのは「建てる」という言葉です。自分自身が成長するのに役立つなら、その「異言」は聖霊の賜物だと言えます。

異言を話すこと自体は成長の徴ではなく手段だという事です。パウロは御霊の実は「愛」だと言っています。

パウロが異言よりも預言を上に置くのは、預言は自分ではなく他の人を建てあげるからです。

他の人を建てあげること自体が「愛」の行動ですから、それに比べると異言はワンクッションおいているとも言えるでしょう。

 

また、異言は霊で祈るだけなので知性は実を結ばないとも書かれています。

聖書の「愛」、アガぺーは、単に愛情という感情だけのものではなく、全人格的なことですから、そこには知性も必要です。「好きで目が見えない」のでは困ります。

知性の成長には知性を使って祈ることが必要です。ただし、知性で祈るというのは、神に向かって自分の知識をひけらかすことではありません。それは馬鹿げた事です。

また、人々の前で、祈りの形で説教することでもありません。

このテーマについては、改めて取り上げたいと思います。

 

異言に限らず、聖霊の賜物は教会(クリスチャンの共同体)を建てあげるために与えられる恵みです。

その中で異言は自分自身を建てあげるためのものです。そのため優先順位は低くなります。

しかし、他人にひたすら尽くして疲れてしまう真面目な人の多い日本の教会にとっては、大きな恵みだとも言えるでしょう。

 

<考察>

@     ご自分にとって異言とはどのような存在でしょうか?

A     「建てあげる」とは具体的にどのようなことでしょうか?