メッセージ要約

「ペンテコステ」C

使徒の働き(Acts)2章1〜21節

 

前回に続いて、使徒の働きからキリスト復活直後のペンテコステについて読んでいきます。

復活したキリストに出会った弟子たちに、キリストは聖霊が注がれる(聖霊のバプテスマ)を約束されました。

弟子たちは預言者たちの預言からイスラエルの再興を望んでいましたが、

聖霊の注ぎが具体的にどのようなものなのかをどこまで理解していたかは分かりません。

ヨエルの預言から、人々が預言、夢、幻を与えられるということを期待していたかもしれません。

いずれにしても、大きな期待をもって共に集まり祈っていたことでしょう。

 

そして、ついにペンテコステ(五旬節)の日に異変が起こりました。

天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に響きわたったのです。

ここの「風」という言葉は、「霊」「息」「風」すべてを表す「プニューマ」ではなく、単純に「突風」を意味します。

だれでも聞こえるような物理的に大きな音がしたのでしょう。

同時に、炎のような分かれた舌が現れたともあり、視覚的な現象も記録されています。

しかし、彼らが聖霊に満たされたと分かったのは、それとは別の出来事、

すなわち、御霊によって他国の言葉で話しだした、いわるゆ異言という現象によってでした。

「教会の誕生」と言われるペンテコステは、この異言によって特徴づけられています。

そこで、今回はこの異言について考えてみましょう。

 

まずは、このペンテコステの異言です。これは、要するに習得したことのない外国語を話すということです。

その言語を話す他人にとっては明確な言語だったので、単に異言ではなく異言語と呼ぶこともあります。

そのような異言語という現象は、教会の内外で時々観察されているようです。

メカニズムは解明されておらず、宗教やオカルトでの超常現象として語られることも多いですが、心理学的な研究もあります。

宗教やオカルトでは、その語っている主体が何かということについて様々は説明がされます。

天使だったり他人の霊だったり前世の霊だったりして一定していません。

一方で、これを心理学的に解釈し、例えば「集合的」意識の現れと考える人もいます。

個人の意識を超えた、集団に拡がる意識を想定するのです。

 

意識には大雑把に言うと普通の意識と潜在意識あるいは無意識とあります。

知らない外国語を話すとしたら集合的な潜在意識から出てくるのかもしれません。

それに対してより一般的なのは集合的な意識によって語ることです。

集団心理という表現がありますが、個人の考えが集団の考えに埋没している状態です。

語っている人本人の意見ではなく、他人や周囲の意見をただ語っているだけというのは珍しいことではありません。

いわゆる「受け売り」のことです。書き言葉なら「コピペ」です。

 

もちろん、人が語る言葉の大半はどこからか仕入れてきたものであって、全くのオリジナルな言葉の方が少ないでしょう。

注意すべきは、オリジナルと引用の区別があるかどうかという点です。

論文を書く時には、引用についてはどこからの引用なのかを明示し、自分の意見と区別しなければなりません。

しかし、あからさまなコピペはともかく、本人も自覚せずに引用していることもよくあります。

引用が混ざって本人の言葉になっていることは多いので区別は難しいところがあります。

 

ところが「異言語」の場合は、本人の知らない言語で語るのですから、その内容はその人の考えでないと言えます。

少なくとも、その内容について本人が責任をとれるようなものではありません。

問題は、個人の範囲を超えた存在が語っているとするならば、それが何なのかということでしょう。

ここで弟子たちが体験したのは聖霊でした。「御霊が話させてくださるとおりに」語りだしたとあります。

では何故それが聖霊だと分かったのでしょうか。言うまでもなくキリストがそのように予告されていたからです。

ポイントは、異言語のような現象は、キリストの言葉と結びついて初めて意味があるということです。

そして、異言語も言葉ですから、大切なのはその言葉の内容です。いろいろな言語で語られていたその内容は

神の大きなみわざでした。はっきりとは書いてありませんが、そのみわざとはキリストの出来事だったでしょう。

どんなに不思議が現象があったとしても、それがキリストの言葉とみわざに結びついていなければ何の役にもたたないのです。

 

もうひとつ大切なポイントがあります。

異言語のメッセージが、自分から出たものではなく聖霊によるのだとしたら、語っている人は単なる道具にすぎないのでしょうか。

霊媒師のように口を貸しているだけなのでしょうか。単なる「受け売り」なのでしょうか。

確かに福音のメッセージそのものはパウロも言うように「受けたもの」であって、自分が考え出したアイデアではありません。

しかしポイントは「証人」という言葉です。

キリストは聖霊が臨むと力を受け「わたしの証人となる」と言われました。

キリストの証人とは、具体的に言うとキリストの復活の証人のことです。「主は生きておられる」ことの証人です。

「昔キリストが生き返った」という話を受け売りで語るというのではなく、「今ここにキリストが生きておられる」ということの証人となることです。

自分自身が証人なのです。その上で、福音のメッセージを語ります。

その内容とは、「今生きておられるお方」がどのようなお方であり、何を語っておられるのかという事です。

 

このように、ペンテコステはふたつの要素があります。第一は「キリストが生きておられる」という事実です。

そこが出発点であり、私たち一人ひとりはその証人です。もちろん、キリストが目に見えない今日、キリストの復活を信じられること自体、聖霊の働きです。

その上で、私たちは福音を語ります。自分ではなく神から出たメッセージを語るのです。

ただし、福音そのものと、自分の考えや周囲の意見、そして宗教的な慣習を混ぜることなく語ります。

それを可能にするのも、聖霊の働きによるのは言うまでもありません。

今日の私たちも、この聖霊の働きを信頼し、今生きておられるキリストと共に歩んでいきましょう。

 

<考察>

@     私たちは、キリストが復活したことをどのように知ったのでしょう?

A     主から受けたことと自分の意見をどのように区別しますか?

B     神が弟子たちに「外国語」で語らせたのはなぜでしょうか?