メッセージ要約

「ペンテコステ」B

使徒の働き(Acts)1章3〜11節

 

ここまで旧約時代に示されたペンテコステの意義について学んできました。また、旧約聖書から関連するいくつかの個所を見てきました。

今回から、イエス様の復活後のペンテコステ、いわゆる「教会(キリストの弟子の共同体)の誕生」の個所を読んでいきます。

 

まず3節、「イエスは苦しみを受けた後」とあります。この苦しみはもちろん直接的には十字架のことを指しています。

ただ、キリストの苦しみは、十字架刑にされた時だけのものではありません。

むしろ、キリストの生涯全体が苦しみと痛みを背負うものでした。イザヤ書53章の「苦難の僕」にあるとおりです。

このキリストの苦しみは、私たちの苦しみを背負ったものでした。その極地が十字架です。

ですから、キリストの十字架が単なる昔話で終わらず私たちがキリストにつながるためには、私たち自身の苦しみから出発する必要があります。

「苦しい時の神頼み」とは、あまりいい意味では使われない表現ですが、苦しみが出発でありゴールではない限り、

意義深いものなのです。

 

詩篇130篇で「私は深い淵からあなたを呼び求めます」という叫びを読みました。

そこで、苦しみが自らの不義の結果である可能性を認めつつ、主は「ゆるしてくださるからこそ恐れられる」と告白しました。

自分の苦しみとキリストの苦しみが重なるのは、キリストが私たちの痛みをわかってくださるということだけでなく、

キリストの苦しみは私たちの不義の結果であるという意味で私たちとキリストがつながっているということ、

つまり「十字架の福音」がその本質であることが重要です。

赦してくださる神が恐れられるのは、そこに十字架があるということを忘れてはなりません。

 

その「苦しみを受けた方」が「彼らに現れて〜ご自身が生きていることを使徒たちに示された(3節)」とあります。

十字架で死なれたキリストが復活して生きておられるというのが福音ですが、復活の本質は神の力を示す以上に赦しの証しです。

(復活は死人がただ生き返った、蘇生したということではありません。そのような奇跡は他にも起こっています)。

私たちの罪を背負って死んだお方が今生きておられるというのは、罪がすでに処分されたということの証明に他なりません。

自分の罪によって私たちは十字架のキリストとつながりました。

そして罪ゆるされた者として、今や復活のキリストとつながっているということこそ福音そのものです。

 

その復活されたキリストが弟子たちと共におられた時に語られたのは、十字架以前と同様神の国についてでした。

キリストの訪れと神の国の訪れはひとつの事柄だからです。

キリストが復活されたということは、いよいよ神の国の訪れが始まったということです。

キリストは神の国の解説者ではなく体現者であるというところがポイントです。

さて、このようにして始まった神の国ですが、その国には主であるキリストしかおられません。

国民はどのようにして生まれるのでしょうか。それがペンテコステのテーマです。

この神の国のビジョンについては、これまでイザヤ、エゼキエル、ヨエル等の預言や律法の祭りをとおして見てきました。

「枯れた骨が生き返るビジョン」によって、まず散らされたイスラエルの民が集められ、そこに神が霊を注いで真に生きたものされることが示されました。

神が「わたしを探さなかった者たちに見つけられる」事態であり、単にもともとあったイスラエルが元通りになるのではなく、

それは新しい天と地であり、その変化は自然界にまで及ぶものであることが預言されました。

また、そこでは聖霊が老若男女問わず皆に与えられ、すべてのが神と直接的に親しく交流することになると約束されました。

 

ですから、キリストの復活に出会った弟子たちが、「今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねたのは当然のことでした。

それは神の国のビジョンに含まれていることです。

ただその時期については、私たちが知る必要がないと言われています。

そのような外形的なことにこだわると、事の本質を見失い、「新天地」ではないものを追い求めることになるからでしょう。

肝心なことは、預言者たちが語ったように、聖霊が与えられる、それも一部ではなく、可能性としては全ての人に与えられるということです。

キリストはそれを「父の約束」である「聖霊のバプテスマ」と呼ばれました。

「父の約束」とはもちろん律法と預言者を通して約束されてきたことだという意味です。

「聖霊のバプテスマ」とは、聖霊に浸されるという意味で、これも預言されてきたことです。

そして、その約束がユダヤ人に留まらず、全世界に及ぶとのビジョンも与えられています。

ですから、聖霊に満たされた弟子たちが「地の果て」まで出ていくのは当然のことと言えます。

 

このように、ペンテコステ(七週の祭り)という収穫祭は、聖霊による全人類の収穫によって完成する新しい天地を指し示すものであり、

キリストの復活により、いよいよその大プロジェクトが始動したことを知るのです。

そのプロジェクトに招かれた弟子たちは「力を受ける」と言われています。

神の国を体現しているキリストの証人として歩むために必要な力です。

ですから、聖霊が臨む(ペンテコステ)とは、

人は単に物質であるだけでなく、神の霊によって生きるものであることを示し、

キリストの十字架と復活、すなわち罪の赦しと神の恵みの勝利を証しし、

年齢、性差、階層、民族、国籍、宗教などあらゆる垣根を越えて働く聖霊を体験し、

神の国、新天地の完成のビジョンを持ち続け、

置かれた場所で歩んでいくことを可能にする力を受けることなのです。

 

 

<考察>

@     弟子たちは、キリストが復活したことをどのように知ったのでしょう?

A     聖霊が臨むことが、「聖霊のバプテスマ(聖霊に浸される」と呼ばれるのはなぜでしょうか?

B     「地の果て」とは、私たちにとってどのような意味があるでしょうか?