メッセージ要約

「ペンテコステ」A

レビ記(Leviticus)23章9〜21節

 

本日は西方教会(カトリックとプロテスタント)ではペンテコステ(五旬節)となります。ちなみに東方教会(正教会)では67日、ユダヤでは517日です(暦の相違によります)。

前回、キリスト復活後のペンテコステの時に聖霊が降臨した事、そして、それがヨエルの預言の成就であったことを読みました。

今日は、そもそもヨエルの預言の成就が何故ペンテコステの日だったのかを理解するために、改めてペンテコステの日そのものについて聖書が語っていることに耳を傾けましょう。

 

ペンテコステとはギリシャ語の表現で、要するに50日ということですが、ユダヤではシャブオット、日本語では七週の祭りと呼ばれています。

レビ記2315節にあるように、「安息日」の翌日から満7週を数え、その翌日、つまり50日目に新しい穀物の捧げものをするように求められています。これが七週の祭り、ペンテコステです。

ここでの「安息日」というのは、過越しの祭り後の最初の安息日のことで、11節にあるように、その安息日の翌日は「初穂の祭り」と呼ばれる日に当たります。

整理すると、第一の月の14日が「過越しの祭り」で、その翌日から1週間が「種なしパンの祭り」です。

その期間中にある最初の安息日の翌日が「初穂の祭り」で、それから50日目が「七週の祭り」です。

 

これらは「主の例祭」と呼ばれましが、その根底には週に一度の「安息日」があることは言うまでもありません。

その上で、まず過越しの祭り、すなわち出エジプトを表す祭りから、いくつかの節目が設けられています。

「種なしパンの祭り」は、罪の象徴としてのたねを入れないパンを食べるで、その最中に「初穂の祭り」が来ます。

「初穂」とは大麦の収穫の初穂のことで、それが主の前で揺り動かされます。

初穂はすべて主のものであるという原則がありますが、それはそもそも約束の地は主のものだから、そこからの収穫物は主のものだという前提があります。

この春の収穫、つまり第一の収穫の初穂を捧げる一種の収穫祭が「初穂の祭り」ということになります。

 

そして、それから50日目が第二の収穫祭である七週の祭り、ペンテコステとなります。

この時期は大麦の収穫の終わりと小麦の収穫の始まりにあたります。

この祭りの特色は、2つのパンを主の前に揺り動かすという部分です。

「種なしパンの祭り」と違って、この時は普通のパン、すなわち種の入ったパンが捧げられるというところが注目されます。その意味については、後で考えるとして、もう少し七周の祭りについて見ておきます。

 

この祭りは、基本は収穫祭ではありますが、ユダヤではそこに二つの要素が加わります。

ひとつは、この日が「律法が与えられた日」とされているというこことです。

過越し・出エジプトから2か月弱のこの頃、シナイ山でモーセが律法を授かったと信じられているからです。

また、七週の祭りで読まれるのがルツ記であるというのも興味深いところです。

ルツが約束の地に来てボアズと結婚したのがこの時期であったこと、ルツが異邦人のいわば「初穂」として、律法の民に加えられたことなどが理由です。

これらのことから、なぜ聖霊降臨がペンテコステの日だったのかが見えてきます。

「過越し」が十字架を表し、「種なし」が罪のない状態、つまり罪のないキリストを表しており、

さらに「初穂」がキリストの復活を表しているいることは分かりやすいところです。

キリストの復活は、彼自身のこととしてだけでなく、すべての復活の初穂でもあったと新約は述べています。

それから50日目に約束の御霊が来られました。第2の収穫において初穂が捧げられる時です。

 

その捧げものの特徴は、2つのパンによって表されています。

このパンは種の入っているパンです。つまり、罪ある人間が捧げられるのです。

もちろん、ユダヤの例祭では、そのパンとともに様々はいけにえが捧げられ、全体として主に受け入れられます。

同様に、今日、罪ある私たちが初穂として神に受け入れられるのは、私たち自身の功績によるのではなく、キリストの贖いのゆえです。

 

そのパンが2つであることについては諸説ありますが、新約においては、ユダヤ人と異邦人を表していると言われています。

ルツは異邦人の初穂としてユダヤの民、いやそれ以上にダビデの系列に加えられました。そこから、パンのうち一つは異邦人を表していると考えられるのです。

ユダヤ人も異邦人も罪びとでありながら、キリストの贖いのゆえに共に神に捧げられるのがペンテコステの意味です。ペンテコステが「教会の誕生日」と言われる所以です。言うまでもなく、その教会とは、ユダヤ人と異邦人からなるキリストのからだである教会のことであり、「新しいひとりの人」と表現されているものです。

ユダヤ人と異邦人からなる「教会」は、旧約の時代には隠れた奥義ではありましたが、決して新約の時代に作り出された話ではなく、主の例祭とユダヤ人の伝統に根ざしていたことがわかります。

 

また、七週の祭り、ペンテコステは律法が与えられた日でもあります。つまり、律法の民が誕生した日でもあるわけです。エジプトで、主の初子として贖われたユダヤの民ですが、律法が与えられて名実共に主の民となったと言えます。

このように旧約の民は律法によって誕生しましたが、新約の民は聖霊によって誕生しました。

そして、この民はユダヤに留まらず、全世界の異邦人にまで拡がっています。

しかも、この民の誕生は初穂であって、まだゴールではないという点に注意が必要です。

 

以上は春に行われる主の例祭ですが、秋には「ラッパの祭り」「大贖罪日」そして「仮庵の祭り」が控えています。

この「仮庵の祭り」が第3の収穫祭、それも最大の収穫祭です。

これらの例祭がキリストの再臨と全世界の人々の「刈り入れ」を指し示しているのは明らかでしょう。

ですから私たちは、キリストの十字架と復活に感謝し、聖霊によって誕生した民に加えられたことを喜びつつ、主の再臨を待ち望んでいるのです。

 

<考察>

@     例祭などの「日」の意味を学びつつも、「日」にとらわれないようにするには、どうしたらよいのでしょう?

A     「律法の民」と「聖霊の民」は、何が共通で何が違うのでしょうか?

B     「2つのパン」は、私たちにとってどのような意味があるでしょうか?