メッセージ要約
「ペンテコステ」
ヨエル(Joel)2章18〜32節
今までエゼキエル、イザヤなどの預言者が見ていたビジョンを読みましたが、今回はヨエルの預言にも耳を傾けてみましょう。
ヨエルの人物像については聖書に情報がなく、活動時期についても諸説ありますが内容は明確です。
主の日と呼ばれる恐ろしいさばきが近づいている。イナゴやバッタによる災害に加えて、外国によってもたらされる酷い破壊が近づいている。だから心から主に立ち帰れ。
主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ(2章14節)というものです。
それゆえ祭司たちにこう言えと言っています。「国々の間に、『彼らの神はどこにいるのか。』と言わせておいてよいのでしょうか」と。
主に選ばれ導かれた民が苦難の中にいる時、普通の苦しみに加えて主の民ならではの苦しみがあります。普通の苦しみとは、苦痛そのものの苦しみと社会的な苦しみです。病気であれば、病気そのものの苦しみと、そのために生じる社会的な不都合です。主の民ならではの苦しみとは、「主よ、なぜですか」という叫びに対する答えがすぐに見えない苦しみ、そして、神を否定する人々から受けるあざけり、主の名が汚される苦しみです。
ユダヤの民はそのような人々の代表であるかのようにして、この書の中でも主の前に立たされています。
そこでは、きよめの集会に民全員が集まり、祭司たちは主の前で泣いて叫ぶように求められています。主のあわれみを求め、諸国民の物笑いの種としないでくださいと叫ぶのです。
このような叫びの祈りは、必ずしも自然発生するものではなく、逆に神からそうするように求められているというところがポイントです。ヨエルのこの呼びかけを、単に彼のメッセージとしてではなく、預言、すなわち神から預かった言葉として聞くことが求められます。この求めに応じる人々に向かって告げられた言葉が18節以下の個所です。
「主はご自分の民をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」とあります。
「ねたむ神」という表現は今日あまり好まれません。ねたみというのは否定的な感情として捉えられるからです。
もちろん、神は人ではなりませんから、神の「ねたみ」と人の「ねたみ」が同じであるはずもなく、あくまで「例え」なのですが、そのような強烈な感情で例えられるほどに、神はご自身の民を愛しておられるということです。
あえて言うなら、「異常なまでに」愛しておられるのです。
それならなぜ神はご自分の民を苦難の中に置かれれるのでしょうか。「主よ、なぜですか」との問に対して、ヨブ記のような「因果応報と不条理」のような議論はこの書ではありません。また、苦しみのもたらす価値についての説明もありません。その代わり、ヨエルは二つの約束を語っています。
ひとつは、主は彼らを回復してくださるという約束です。25節では、「わたしが送った大軍勢が、食い尽くした年々
を、わたしはあなたがたに償おう」と主が語っておられます。
荒らされた土地を始め、様々なものが失われましたが、神ご自身がそれを償うと言われます。なぜなら、苦難の原因は様々ですが、それが何にせよ、究極的にはすべては神の主権のもとにあるからです。
ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、神の主権について立派な信仰告白をしましたが、神の主権はただ「与えて取る」だけではありません。
主は苦難のゆえに失われたものを自ら「償う」ことによって、「ねたむほどの愛」を土台とした主権を表しておられるのです。
そのことによって、回復していただいた民は、回復そのものを喜ぶだけでなく、諸国民に対して主に選ばれた民であることを証しすることになります。「わたしの民は永遠に恥を見ることはない」とあるとおりです。
ヨエルはエゼキエル同様、そのような目に見える回復の先にある真の祝福を語ります。それが、使途の働きに引用された28節以下のことばです。
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」という約束は、ペンテコステの日に成就したとペテロは語りました。ヨエルで「すべての人」というのは、性別、年齢、職業などを問わず全てのユダヤ人ということです。
旧約の時代は、預言者など特定の人にだけ聖霊が下りましたが、その時が来ると聖霊がユダヤのすべての人の間で働かれるというビジョンです。言うまでもなく、この祝福がユダヤ人を越えてすべての国民に及ぶというのがキリストの福音です。
ヨエルは聖霊の訪れの現れとして、息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見ると言っています。これはもちろん、年齢別の特徴を説明しているのではなく、「すべての人」が預言者のようになると言っているのです。
このテーマについてはパウロが詳しく述べているので改めて読んでいきます。
その前にもう一度ヨエルの言葉を読みます。「その日」は「主の大いなる恐るべき日」と呼ばれています。「天と地に不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である」とあります。血と火と煙については様々な解釈がありますが、主がアブラハムと契約を結ばれた時の出来事を連想させます(創世記15章)。それ時、真っ二つに切り裂かれた牛や羊の間を、煙の立つかもどと、燃えているたいまつが通りすぎたのです。「主の日」が恐るべき日であるのは、基本的にそれが神の契約に関わる日だからです。私たちは周りの状況によって物事を判断しますが、神はご自身の契約によって事をなされます。その契約に対してどのような立場にいるのかによって、それは「恐ろしい日」にも「喜ばしい日」にもなります。
聖霊の訪れが喜ばしいことであるのはわかりますが、恐ろしい日でもあり得るのはなぜでしょうか。
それは、全ての人にとって神が身近になるからです。神が身近であるのは、うれしい事でしょうか。それとも鬱陶しい事でしょうか。自分が嫌っている人にも聖霊が働かれることを受け入れられるでしょうか。
聖霊が来られるとこれらすべてのことが問われ明らかにされます。聖霊が罪を知らせてくださるのです。
しかし聖霊は罪だけでなく、イエス様を証ししておられます。聖霊によって私たちはイエスを主と告白できるようになります。そして、主の名を呼ぶものはだれでも救われるのです。
<考察>
@ 「主の名が汚されている」と感じることはありますか。それはどのような時でしょうか?
A ヨエルの預言が目に見えるようになるには数百年もかかりましたが、どのように感じますか?
B 「大いなる恐ろしい日」が「祝福の日」でもあるという事を、個人的にはどのように体験していますか?