メッセージ要約

「新天地」

イザヤ(Isiah)65章17〜25節

 

前回「霊肉二元論」(人を霊魂と肉体という二つのパーツに分ける人間観)とは異なる人間観を見ました。つまり、人を霊の働きによって生きている「全人的な存在」として捉える人間観です。この人間観・世界観をさらに確認しましょう。今回はイザヤのビジョンです。

 

イザヤもエレミヤやエゼキエル等と同じように、捕囚期の関連した様々な預言をしましたが、今日の個所はイスラエルの回復についてです。しかも単にバビロンから約束の地に帰ること以上の出来事のビジョンです。64章で著者は神に向かって「エルサレムは荒れ果てているのに、あなたは黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」

と叫んでいます。今回の65章はその叫びに対する神の答えです。1節にはこうあります。「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを探さなかった者たちに、見つけられた」。これは後にパウロが異邦人について述べているときに引用している句ですが、ここではいわゆる「残りの者」の話になっています。そして、その残りの者たちに約束された新しい世界が17節以降に述べられています。

 

そのビジョンとは神が新しい天と新しい地を創造するというものです。新しい天地の創造は、エルサレムの創造とも呼ばれています。それは、一度失ったものを回復するというのではなく、新しく創造するというものです。「先のことは思い出されず、心に上ることもない」のです。ここで、単に新しい天ではなく、新しい天と新しい地であることに注意しましょう。「霊肉二元論」では、地を去って天に行く感じが強いですが、そのような天地、つまり上下の空間的なイメージではなく、聖書ではむしろ、古い天地と新しい天地という時間的なイメージが強くなります。

「唯物論」ではありませんから、もちろん「地」だけでなく「天」も語りますが、天と地はいつもセットです。旧天地から新天地へ、これが聖書の世界観・歴史観であり、旧天地に属する生まれつきのままの人間から、新天地に属する新しい人間へ、これが聖書の人間観であり、また「救い」ということなのです。

 

それでは、その「新天地」の特徴を見ましょう。

まず第一に「新天地の質」です。新天地は「楽しむ」もの、それも神と人の双方向が楽しむものだと言うのです。人が新天地を楽しみ、神もその人を楽しむのです。今の「旧天地」でも楽しみはありますが、それは部分的・一時的であり、むしろ多くの嘆きと苦しみに満ちています。神もこの人類の歩みを喜んでばかりはいられません。罪のなかにある人類は神をおそれるべきであり、主をおそれることが知識の始まりであり土台ですが、そこから出発して新天地に至るあかつきには、おそれは喜びとなるのです。そして、そのような民を神は喜び楽しまれることを預言者は見ています。

ですから、「先のことは思い出されず」というのは、記憶喪失のことではなく、喜びが恐れ・悲しみを凌駕し、葬り去ってしまうことなのです。

 

第二に「新天地の拡がり」です。それはまず「長寿」です。イザヤのこのビジョンは「永遠のいのち」のことというよりも、肉体が祝福されるビジョンです。肉体が霊に比べて劣った存在であるとか、単に天国に行くまでの通り道だというような考えではなく、霊肉一体の人間が豊かに「末永く」生きられる祝福が語られています。

永遠ではなく末永くだけなのは何故という疑問に対しては、これは地上の千年王国のことなのだ、など、様々な解釈がありますが、それよりも今回大切なのは、ただ不滅の霊魂が天国に行くことよりも、具体的な人間が生きている地上に神の国が来るというビジョンを失わないことです。

 

このビジョンのポイントはただ長生きするだけでなく、そこに公正な社会が実現しているという点です。拡がりが長寿という時間の面だけでなく、社会という横の拡がりでもあるということです。

「彼らが建てて他人が住むことなく〜」とあるのは、直接的にはバビロン捕囚時のようなことはなくなるという話ですが、より普遍的な意味では「搾取」がなくなるということです。

共産主義は、資本主義下で労働者が搾取されている状態から解放される夢を語りましたが実現しませんでした。無神論を信条とする彼らのユートピアには新しい地はあっても新しい天はないからです。高齢化自体は良いことでも、格差が拡がり不公平感が強まっている日本も他人事ではありません。

さらに、「子を産んで、突然その子が死ぬこともない〜」とあるように、個人の長寿だけでなく子孫の未来が確保されていて、これも日本の大きな課題であることは言うまでもありません。

 

第三に「新天地の縦の関係」です。天と地の繋がりが緊密です。神と人とが共に住んでいるのです。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」とあるように、神と人の心が一致していて、いわば「つうと言えばかあ」の関係が出来ている状態です。天と地が離れている時には、それを繋ぐ手段が必要です。要するに「宗教」と呼ばれるものがあって、様々な儀式や祈祷、戒律や瞑想などといった手段を用いて、天と地を繋ぎます。しかし天地がひとつになっていれば、そのようなものは必要ありません。

 

キリストは自らユダヤ人の子として、ユダヤ教の下に生まれ生活をされました。聖書で「律法の下」と呼ばれている事態です。しかしキリストは十字架の死によって、つまり律法によって死んだことにより律法を終わらせました。

復活のキリストはユダヤ教を完成し終わらせたので、もはやその下にはいないのです。(もちろん「キリスト教徒」になったわけでもありません)。簡単に言えば、キリストにおいて天地はひとつなので、宗教はいらないのです。

これが福音であり、私たちもそこに招き入れられました。私たちはまだその途上であり完成していませんが、かなたに「新天地」を見ています。神と人が「つーかー」であり、宗教が無用の世界(無神論ではない)を待ち望んでいるのです。

 

最後に、新天地では自然界の回復がなされます。「狼と子羊は共に草をはみ〜」というのは、単に食生活のことだけを言っているのではなく、「わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく〜」とあるように、神のもとに人だけでなく自然界全体の調和が実現することを表していると言えるでしょう。今日、「万物の霊長」とうぬぼれた人類が自然を破壊し続けていますが、人類と自然は一体なので、人類の救いと自然の回復がセットであるのは当然のことです。「エコロジー」「環境保護」は正しい考えではありますが、もし「天」を排除し「地」だけで実現しようとするならば、共産主義同様、不毛の道を歩んでしまうかもしれません。

ですから私たちは「主の祈り」にあるように、神の名が聖なるものとされ、つまり天が天であるとされ、その天の国が地上に来るように祈り続けましょう。

 

<考察>

@     地だけでなく天も新しくされるのは何故でしょうか?

A     長寿が祝福であると言えるためには、どのような条件が必要でしょうか?

B     「宗教」と「福音」の違いを確認しましょう。