メッセージ要約

「枯れた骨の復活A」

エゼキエル(Ezekiel)37章1〜14節

 

前回、預言者エゼキエルの幻を読みました。枯れた骨が生き返る幻です。

これはイスラエル回復のビジョンではありますが、同時に聖書の人間観をも表現しています。生きるとはどういう事なのかを示しているからです。

そこで、今回は改めて、聖書の人間観、人間とはどういうものなのかを確認していきたいと思います。

 

骨や肉や皮が組み合わさても人は生きておらず、そこに「風」(霊のこと)が吹き込んで、初めて生きたものとなりました。神がアダムを創造された時、塵からできた体に息が吹き込まれたのと同様のパターンです。

アダムの時は塵からまず肉体が作られ、そこに息が吹き込まれました。エゼキエルのビジョンでは、干からびた骨から肉体が作られ、そこに四方から風が吹いてきました。違いもありますが、肉体に息あるいは霊が吹き込まれるというパターンは同じです。

 

この聖書的人間観、とくに復活の人間観は、しばしば誤解されます。それは「霊肉二元論」という誤解です。霊肉二元論というのは、人間は霊(あるいは魂)と肉体というふたつの部分が合体してできている、あるいは肉体の中に霊魂という別のものが宿っているという考えです。それに対して、霊魂などというものは無く、肉体だけが存在するのであって、心というものも、脳の活動に過ぎない、だから人間は物質以上のものではない、そう主張するいわゆる唯物論もあります。聖書が唯物論でないことはすぐに分かりますが、霊肉二元論でないのは分かりにくいかもしれません。

 

霊肉二元論の肉体については置いておくとして、そこに宿る霊魂とは何かとなると、いろいろな考えがあります。新約聖書の時代(紀元1世紀から2世紀)にクリスチャンの信仰を脅かした「グノーシス」というのも典型的な二元論ですが、彼らは清浄な「霊」が穢れた「肉体」に捕らわれていると考えました。ですから救いとは霊魂が肉体から解放されることでした。日本でも清浄な心に穢れが「付着」するのでお祓いするという考えがあります。

もちろん二元論であっても霊魂が穢れると考える人たちもいます。その場合は、死んで肉体と霊魂が分離すると霊魂は地獄に落ちたり永久に輪廻したりする可能性があります。

いずれにしても、二元論での霊魂というのは、肉体のような目に見える物質ではないものの、やはり何か「もの」として肉体とは別に存在しています。ですから、肉体と霊魂というふたつの「もの」が合体して人は産まれ、合体している限りは生きており、その二つが分離するのが死、そして死後は独立した霊魂が何某かの状態で存在し続けるという人間観です。

 

実は、聖書の中にも二元論的に読める箇所がないわけではありません。例えば伝道者の書には、すべてのものはちりに帰り、霊は上に上る〜とあります。しかし、これはすべてのものが空であり、人は獣にまさっていない、どちらも同じ息を持っていて同じように死ぬ。ただ、引き取られた息(霊)が人と獣では違い、人の息は上に、つまり神に向いていくという話です。人は神とつながっているということです。またパウロはピリピ人への手紙で、世を去ってキリストとともにいることと、肉体にとどまることを比較しています。しかしこれは、牢獄の中で生命の危険にさらされているパウロが、たとえ死んでもキリストとともにいるのだからむしろ喜ばしい。しかし反対に地上に留まるならば多くの実を結ぶ。であれば自分は生きながらえることを選ぶという、すべてはキリストと共に、キリストのために生きるということの表現です。霊魂が大切で肉体は二の次ということではありません。

 

聖書の世界でも、肉(肉体)、魂、霊、あるいは心などといった言葉が出てきます。しかし、まるで人がそれらのパーツが組み合わさってできているかのように考える必要はありません。

塵から造られたアダムにいのちの息が吹き込まれると生きた人(原語は魂)となりました。魂は人間の部分ではなく、人の全体のことです。アダムで息であったものは、エゼキエルでは風(霊)となっていますが、いずれにしても人間の一部分ではなく、風のごとく吹いているもの(物ではありませんが)です。もちろん、霊にはいろいろな霊があるでしょうが、ここで大事なのは、神から吹いてくる風です。吹いているものですから、一ヵ所に留めておくことはできません。私たちにできるのは、神の風(霊)を所有することではなく、風の中に留まることです。聖霊がうちにあるというのは、聖霊の風が私たちの内を貫いていつも吹いているということです。

 

この聖霊の風とは、キリストの霊、すなわちキリストのいのちの息吹でもあります。ですから、聖霊が私たちの内外に吹いているということは、私たちがキリストの内にあり、キリストが私たちの内にある(すなわち相互内在)ということなのです。

アダムはいのちを息を吹き込まれましたが、神に背いたため、いのちが制約されてしまいました。その後の旧約の時代、時に神の霊が人々の上に下ってくることはありましが一時的なものでした。エリヤやエリシャといった預言者たちは、神の力強い霊の働きを経験しましたが、結局人々は神から離れ「干からびた骨」となってしまいました。

しかし、神はその民を再び集め、四方から風を吹かせると言われたのです。「四方」というのは全世界のことです。

今度吹く風は、特定の個人の上だけではなく、全世界に吹きまくるのです。

 

キリストの復活後、五旬節の時に弟子たちに聖霊が下りました。彼らは、それ以前の預言者たちとは異なっていました。それは、ひとりひとりの上に個別に注がれたものではなく、割れたひとつの「舌」でした。ひとつの舌といっても、たくさんある舌のうちのひとつではなく、それは唯一の神の「舌」であり、それは全世界に吹く風だったのです。ですから、聖霊を受けた弟子たちは諸国民の様々は言葉で話を始めたのです。彼らはまだそれらの言語は理解していませんでした。しかし彼らがその風に促されて全世界に出ていくとき、やがてそれらの言語を理解し、人々にキリストの復活を宣べ伝えることになりました。その結果、彼らから見れば「地の果て」である私たちの所でも福音が日本語で宣べ伝えられているのです。

 

それでは、その風にあやかるにはどうしたらよいのでしょう? 風はキリストの復活によりあらゆる所に吹いています。私たちに必要なのは、ただ求めることです。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがあるましょう」とイエス様が言われているとおりです(ルカ11:13)。

ちなみに、これは、有名な「求めなさい(求め続けなさい)。そうすれば与えられます」という言葉の結論の部分です。私たちが一番求めているのは何か。それが今問われていることなのでしょう。

 

<考察>

@     「霊肉二元論」には具体的にどのような問題があるでしょう?

A     「霊肉二元論」では、肉体はどのような意味を持つでしょうか?

B     新約聖書の多くは、「霊肉二元論」に反対するために書かれています。どのような箇所でしょうか?