メッセージ要約
「神の守りの中で」
第2列王記(UKings)6章8〜23節
今回は、預言者エリシャが行った力強い業の話です。当時アラムはイスラエルと戦っていました。
アラムの王が家来たちとイスラエル攻撃の計画を相談すると、エリシャはこれを見抜きイスラエルの王に告げたので、
攻撃が失敗してしまうという事が何度も繰り返されました。
アラムの王はこのエリシャの事を知ると、彼を捕らえるために馬と戦車と大軍を送りました。
エリシャの召使いがこの大軍が自分たちの町を包囲しているのを見てエリシャに「どうしたらよいのでしょう」と言うと、
エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は彼らとともにいる者よりも多いのだから」と告げました。
その召使の目が開かれると、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いていたのです。
エリシャと召使いは見えているものが異なりました。
私たちを取りまく状況が厳しいとき、例えば今日のコロナ感染症の嵐の中で閉じ込められているような時期に、私たちは何が見えるでしょうか。
この感染症は目に見えない部分が多いです。ウイルス自体も肉眼では見えません。その働きもよくわかっていません。
実際に感染者がどの位いるのかさえ明確ではありません。
これらのことは、時間とともにいずれ分かってくる面もあるでしょうが、それで感染症がなくなるわけでもありません。
今回のコロナは近年では最大の戦いだと言われていますが、人類にとって感染症はずっと敵でした。
抗生物質のおかげて最近でこそ感染症以外の死因が多くなっているとはいえ、それは一時的なことなのかもしれません。
その意味では、ウイルスや細菌の活動も自然界の一部であり、ずっと戦うなり付き合う他ないのでしょう。
しかし同時に、疫病を単なる自然現象いうことだけで済まさず、そこに神からのメッセージを読み取ることも必要です。
つまり、私たちの目が開かれることが求められるのです。エリシャはアラムの軍が敵でした。
では、私たちを取り囲んでいる敵とは何でしょうか。新型コロナウイルスでしょうか。そう考える人はもいます。
ある宗教家はウイルスを呪い、ウイルスに対して神の勝利を宣言することで、疫病に打ち勝とうとしています。
神の火の戦車はウイルスよりも多いということなのでしょう。それは敵は撲滅すべしという哲学です。
今一度エリアの記事を見ましょう。エリシャは敵軍の目を見えなくした上で、彼らを都まで引き連れていきました。
イスラエルの王が彼らを打とうと言うとエリシャはそれを止め、反対に彼らをもてなして帰らせました。
その後アラムの略奪隊はイスラエルに侵入しなかったとのことです。
もっとも後にアラムはイスラエルを包囲することもありましたから、決して恒久平和が来たのではありませんが。
ここで神がエリシャを通してイスラエルを守っておられます。ただし、敵を撲滅するのではなく、反対に敵を祝福するように導かれています。
いうまでもなく、新約のメッセージがここにあります。
それでは、エリシャを取り巻いていた火の馬や戦車、すなわち神の軍勢はなんのためにそこにいたのでしょうか。
アラム軍の目が見えなくなったのは、エリシャが神にそのようにお願いしたからです。
サマリアに着いた時に彼らの目が開いたのもエリシャがそう神に祈ったからです。
すべては神とエリシャの間のやりとりで進んでいます。
神の軍勢は神の守りの象徴ではありますが、私たちが敵と戦い、敵を撲滅するための手段ではありません。
私たちが包囲されている時に、もし目が開かれれば、神の軍勢が大勢いることがわかるのでしょう。
しかし、私たちを守られるのは神ご自身です。そこでは、私たちと神との関係が問題となります。
預言者というのは、神のことばを預かる者のことですが、私たちも預言者ではなくても、神のメッセージを預かっているものです。
エリシャのこの箇所では敵を祝福するというメッセージを神から受けていました。
神の軍勢は、それが可能であることのビジュアルな徴(しるし)だったのでしょう。
ゲッセマネでイエス様を捕らえに来たものにしもべが切りかかった時に、イエス様は剣を収めよと命じ、
自分が願うなら12軍団より多くの御使いを送ってもらえると言われました。
神の軍勢はいつでも必要に応じて備えられるのです。しかしイエス様はあえて十字架へと向かいました。
真の勝負は単なる力比べではないのです。
パウロは「私たちの戦いは血肉(生身の人間)に対するものではなく、
諸々の霊的存在(目に見えない力の秩序・システム)だと書いています。
このことは今日の状況とどう関わるのでしょうか。ウイルスは目には見えませんが霊的な存在ではありません。
もちろん、私たちが「赦す」べき敵である人間でもありません。ウイルス自体が問題なのではありません。
むしろ、このようなウイルスに包囲されている状況で普段隠れていた問題が表面化してくるのです。
それは、例えば日本の決められない政治、実態にあわない法律、縦割り行政、構造改革の遅れ等といったすぐに分かる問題だけでなく、
家庭の抱える困難、宗教の在り方その他数えきれない問題があります。また、日本と諸外国との違いもよりはっきりしてきます。
このような個別の問題の背後にはより深い事柄があります。
例えば、個別の政策の話をする前に、そもそも「国」とは何なのか、国と国民とはどういう関係なのかということが問題になっています。
私たちは神の国が地上に来るようにと祈っています。死んだら天国に行くようにというより、地上の国が神の国になるようにということです。
神の国とはどのような国なのでしょうか。多くの諸外国ではロックダウンといって強制的に社会活動を制限しています。日本はしていません。というより制度上できません。良し悪しについてはさんざん議論されています。
では、神の国ではどうなのでしょうか。神は私たちをどのような形で支配されるのでしょうか。
今日、不完全ながら神の国を地上で反映しているのはキリストのからだである教会です。
では、いわば包囲されて身動きができないような時に、教会はエリシャのように神の支配を表せるでしょうか。
赦しと和解という「祭司」の働きをどのように果たしていけるのでしょうか? 祈りの課題はたくさんあるようです。
どうか私たちの目が開かれ、私たちを真に取り巻いているものが何なのかを見ることができますように。
また、私たちの耳が開かれ、神の語りかけを聞くことができますように。
そして、ふさわしい時に私たちが閉塞状況から解放され、約束の場所と働きに導かれますように。アーメン。
<考察>
@ 神の国に関しての問いかけについて考えてみてください。
A 今回の閉塞状況の中で学んでいることについて話し合ってみてください。