メッセージ要約

イザヤ4019節〜31

「主を待ち望む」

 

前回まで、巡礼に関するダビデの詩篇とヨブ記を読んできました。今回はイザヤ書を読みながら、これまでのテーマを振り返ります。

 

詩篇130篇では、苦しみの中からの叫びのような形で、なお主のことばを待ち望んでいます。

その中で、「神は赦してくださるからこそ人に怖れられる」という「神の赦し」が「待ち望み」を支えています。

131篇では、安定した「待ち望み」の姿、すなわち、乳離れした子を母の前にいるような、信頼に基づいた「待ち望み」の姿を語っています。

ヨブは、苦難の中で神に自分の潔白を訴えるような叫びをあげていましたが、最後に神に降参します。

その降参には、自分を責めていた人を赦しとりなすという大事な要素をあります。さらに、ヨブは「復活」につながる信仰を告白しています。

神の義、そして神によって義とされることは、復活と不可分であるということです。

 

以上をまとめると次のようになるでしょう。

私たちは天の御国を目指し地上で旅をしている巡礼者である。巡礼には苦難もあるが、神を信頼し待ち望みつつ歩むべきである。その歩みの中で大切なことは二つある。

一つは「赦し」でありもう一つは「復活信仰」である。そもそも私たちの旅が可能なのは、まず神が私たちを赦してくださったからである。

そして、赦されたものには赦しの使命が与えられている。

言い換えると私たちは「旅する祭司」なのである。そして、神に赦され「義とされた」者は、神がその旅を完成させてくださる。

それは、この地上の人生に限られたものではなく、天の御国にまで続くものであり、そこに復活がある。

短く言えば、「赦し」「旅」「信頼」「復活」と言えるでしょう。これは、聖書の世界観、人生観の基本です。

 

イザヤは、「主を待ち望む者は力を得る」と言っています。その前提は、神は万物の創造者であるということです。これは、ヨブの場合と同じですね。

神の創造の力が、主を待ち望むものに与えられるというのです。

もしこれを、ダビデやヨブ抜きで読むと、神を単なる巨大なパワースポットのように誤解してしまう可能性があります。

つまり、苦難を伴う旅の中で復活に至るまで神を信頼し続ける力、そして赦され赦す者として生きていく力のことを忘れてしまう危険があるのです。

 

ここで鍵となるのは「創造」です。ヨブに対して神は創造者としてのご自分のみを語られました。

もし神の創造が単なる力を見せるものに過ぎず、神と人が力比べをし、人の敗北を認めさせるだけのものならば、それはあまり意味のあるものではないでしょう。

「創造」はもちろん力を意味しますが、それは、ビッグバンのような物理的な力以上に、人を赦し、人を神との信頼関係に導く、霊的で倫理的な力なのです。

神はこの宇宙を複雑な機械として造られたのではなく、霊的・倫理的なものとして造られました。それはもちろん、神ご自身が霊的で倫理的なお方だからです。

 

「創造」についてもう一つ重要なのは「普遍性」ということです。神が万物の創造者だというのは、神は普遍的なお方だということです。

つまり、何か特定の宗教の崇拝物ではないという意味です。

ですから、私たちが霊的・倫理的な存在として旅をしているというのは、何か特別な宗教を信じているからではなく、

どこのだれにでも当てはまる普遍的な出来事だということです。

 

時に人は信仰を信念の力、念力のようなものと考えてしまいます。信じるものが何であれ、信じる力が物事を動かすというのです。

そのような信念にも力はあるかもしれませんが、それが霊的・倫理的なものとは限りません。

何か特殊なものを信じるのはかまいませんが、それが個人的な信念であるならばそれまでのことです。私たちにとって大切なのは普遍的なこと、皆に当てはまることです。

「赦し」が土台なのもそれが普遍的なことだからです。

イエス様が「神は悪人にも善人にも太陽を上らせる」と言われたのは、一時のヨブのように不条理を嘆かれたのではなく、

神は普遍的なお方であり、人を赦し、さらに人が赦し合うことを望まれているからでしょう。

 

人類の力は増しています。もちろん核や遺伝子操作、人工知能をもってしても、宇宙の創造はおろか、ウイルス感染のひとつもコントロールできません。

とはいえ、そのような神との力比べは無意味です。むしろ私たちは、人類の霊的・倫理的な力が増加するどころか、ますます乏しくなっている現実を直視すべきです。

人は神に似せて造られているので、物理的は力を究極的に信じているは単なる物理的な存在にしかなりません。

しかし、霊的・倫理的な神を信じ、その被造物として生きるならば、その者は「新しく力を得る」ことになるのです。

 

<考察>

1.「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか」(18節)とありますが、この問いにどのように答えますか?

2.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26節)とありますが、宇宙の神秘に魅せられる人は多いのに、創造者を認める人が少ないのはなぜでしょうか?

3.「キリスト教の神は普遍的な神だ」ということと、「クリスチャンは普遍的な神を信じている」ということは同じでしょうか? その異同が信仰にどう影響するでしょうか?

4.「人の日は草のよう」など、人がちっぽけな存在であると聖書が語っているところはたくさんありますが、そのような人に神が力を与えるのはなぜでしょうか? 

なぜ、まず草のように弱いものとされてから力を与えるのでしょうか?

5.「主を待ち望む者」に力が与えられるのはなぜでしょうか?

 

以上