メッセージ要約
202045
詩篇131篇 「乳離れした子のように」

 

前回に続いて、「都上りの歌」いわゆる巡礼の歌です。
ダビデによる歌と記されています。
前回の詩篇130篇では、「淵」の中から神を呼び求めつつ、主を待ち望でいました。
131篇も主を待ち望むという結論は同じですが、雰囲気は随分異なります。

ここで著者はまず、「自分の心は誇らず目は高ぶらない」と告げます。
もちろん苦難を通して学んだのであれば130篇と同じとも言えますが、
こちらでは「自分の魂をしずめた」と語っていて、ある意味で苦難を乗り越えた様子を伝えています。


高ぶりが神の嫌われることであり、すべての罪の根源であることは、聖書でしばしば言われています。
そもそもアダムとエバの堕落は、「神の言われたことに背き、目が開かれ、神のようになる」と考えたことから始まりました。しかしもちろんそれが破滅の始まりでした。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言1618)」

日本でも古来から「驕れる者久しからず」と言われてきたように、これは歴史を見ればだれでもわかる普遍的な真理だと言えるでしょう。
ただし、詩篇が語っているのは、神の前での高ぶりのことです。必ずしも外から見えるものではありません。

著者は「大きなことに深入りしません」と言っていますが、他人との比較での大きなことではなく、神の前での大きなことが問題です。ダビデはイスラエル史上最大の王であり。外から見ればまさに偉大な人物でした。
しかし、神の前では「最も小さな者」だと自覚できたのでしょう。

「深入りしません」と訳されている言葉は「歩む」という意味です。
神の前で、大きいことや自分にとって「度が過ぎる」道を歩まない、
つまり、人が神の領分に立ち入る生き方をしないということです。
それが具体的にどのようなことを指すのかは、一人ひとりが真剣に考えなければなりません。

著者は、自分の魂を和らげ、「母の前にいる乳離れした子」のような状態だと言っています。
ここで「乳離れ」とは、およそ3歳位と言われています。
それまでは、乳を必死に求める子と、それに対してベストを尽くして乳を与えてきた母という関係でした。
それに対して乳離れした子は、母に対する信頼が育ってきていて、食事を待てるようになります。
「信頼関係に基づく自立」がここにあります。

神の前での「自立」というのは、もちろん神から離れるということではありません。
子が母を「自分とは別の存在」として認識できるように、人は神ではなく、
神の領分に立ち入ることはできないことを認識するということです。
どうして立ちいらなくて良いのかと言えば、神を信頼しているからです。
その信頼が「待つ」という行動に繋がるのです。

もちろん、幼子の乳離れでも3年かかるように、主を待つことを学ぶには時間がかかります。
幼子の乳離れも母の犠牲的な愛が前提となります。
同様に、この詩篇の言う「魂の和らぎ」か可能となるのは、神の犠牲的な愛があるためです。
その愛は、まさにキリストの十字架に集約されているのです。

 

 

 

<考察>

 

質問

 

1.著者はここで自分の心は高ぶらないと述べていますが、本当にそうなのか、ただそう思い

込んでいるだけではないのか、どうしてわかるのでしょうか? 人は自分の心のことを正しく認識できるのでしょうか?

 

2.「大きなこと」が「神の主権に属すること」だとして、「神の主権に属すること」とは、具体的にはどのようなことが考えられるでしょうか?

 

3.普通私たちは神の大きなわざを期待しますし、また聖書もそれを大いに期待し祈り求めることを勧めていますが、そのことと、この詩篇のメッセージとは、」どのように調和するのでしょうか?

 

4.著者はここで、自分の魂を和らげたと語っていますが、具体的には何をどのようにしたのでしょうか?

 

5.聖書の世界では、神を「父」として呼ぶのが普通ですが、ここでは母と乳離れした子との関係で神と人との関係を描写しています。このふたつの表現はどのように繋がるのでしょうか?